罔兩庵日乗 mouryouan’s diary

私的思索散話妄言覚書

「愛」の定義が困難な理由 ,,200815

「愛」の定義が困難な理由 ,,200815

「愛」の定義は古今東西多々あるが、必要十分過不足無い定義を小生は知らない。
我が師スピノザにしても、一応納得はするが過不足無く愛を表現しているとは言いがたい。

 その(定義が困難な)主な理由は、

「愛」と云う言葉には
感情としての愛。と
抽象概念としての愛。の、2つがある。

感情の一種としての愛は、個人に帰属する主観であり、共有は不可能。

抽象概念としての愛は、抽象のレベル次第で、多数に共有可能。

この、2つを同時に定義しようとすることは不可能に近い。

と、云うこと。。。

例えば、スピノザの定義は「エチカOGD 」の論旨からしても明らかに前者である。
「他者を原因とする喜びの感情」

故に、後者の意味はこぼれてしまっている。

―――――

小生は基本的にスピノザ的に「愛は感情」としてとらえているので、抽象概念の愛をもゴッチャにしているヒトには上手く話が伝わらない。
 
どうせ、どっちにしても話し言葉が伝わるとは思ってないから(面倒だし)いい。、、、
だから、書くことに意味があるわけだ。

―――――

愛が感情ならば、どこまでも個人の問題だ。
語りは、基本的に独白になるはずだ。

祖国愛だの、愛校心だの「倒錯したフェティッシュ」としか思えない。
これ(フェティッシュ)の賛美を他人にものぞむとは、ほとんど狂気の沙汰としか思えないのだが、、、
だから(やや飛躍するが)、小生にしてみればオリンピックに酔う人々と好戦的愛国家はかなり重なって見えてしまう。……失礼、勿論偏見です。

愛が(感情でなく)概念なら、その概念を道徳的に操作してイデオロギーにすることは簡単だ。
それが、愛国心の正体だろう。
これは、エゲツナイ。ヒドイ。

感情なら、バカすぎる。
概念なら、邪悪すぎる。

どちにしても、愛を共有したがる人々とは関り合いになりたくない。

―――

更に云えば、小生は「抽象概念としての愛」の定義には余り興味はない。

なぜなら、無駄っぽいからだ。

舌足らずな説明をする。

……ラカン的に云うならば 
「愛するとは、要求の状態に身を置き、あなたが与えることのできない何かを愛する人に与えたい、また、あなたの愛する人があなたに与えることのできない何かを受けとりたいと希うことだ」
→フィリップ・ヒルラカン」ちくまp87より

こんな厄介物の「定義ごっこ」にしろ、現物にしろ、関わるのは出来れば御免したい。

―――

無論、一般の感情としての愛は、小生にも確かに存在していると感じる。
が、それはワタクシ個人の問題だから、やはり語ることにほとんど意味はない。  
独りスマホの写真を見てニヤニヤするジジイの、何を語る価値があると云うのだ?
(愛してると云うことは、愛する当人が勝手に喜んでるってだけの話だから、愛される方には何の関係もない。)

と云う訳で、愛を語ることに興味は薄い。

愛することが出来るだけで、幸福である。と、すべきだろう。

愛されることは、他人の(喜びの感情の)問題だ。
ワタクシには関わり無い。

わかります???