兼好、残念 ,,20191102
兼好、残念 ,,20191102
徒然草 は、思索と批評が段を増す毎に深まって行くのだそうだ。
どこで聞いたのか、読んだのか、思い出せない。
その、読んだか聞いたかした評論で、「主ある家は」の一文を取り上げていた。
そこでの論旨はここでの話と全く関係ない、兼好賛美だった。
その一文に、小生は全く別のことを思ったのでメモしておく。
テクストはネットで調べた。
主のいない空き家は、他人や獣が好きに出入りするものだが、心も同様に色んな想いが勝手に浮かんでくる。……
と、云う話だ。
言いたいことは以下の結びのところだろう。
~前略
虚空よくものを入る。我らが心に念々の欲しきままに来たり浮かぶも、心といふもののなきにやあらむ。心に主あらましかば、胸の内に、そこばくのことは入り来たらざらまし。
さて、この文を「兼好さまさまありがたやー」の思考停止ではなく、論理的にまじめに考えてみる。
この文に登場する個物の関係はどうなっているのか?
語る[私(兼好)] [心の主] [心] [来たり浮かぶもの=想念,表象]
これらの関係がちょっとわからない。
心の主=家の主
心=家
来たり浮かぶもの(想念)=人や獣
の比喩の対象だと思う。
では、私は?
私は、心の主では無いようだ。
私がいない、と云うわけではないようだ。
では、何?
また、想念、(感覚器から来たものではない空想夢等の)表象は、心の一部分とかでは無く独立したもののようだが、ま、これはいい。
私は心の主&心、ではないのか?
私と心の主は別なのだろうか?
逆に、私が心の主なら、心は私ではないのか?
「心の主であるはずの私に、何故想念がコントロールできないのか?」と云う、わりと陳腐な話になのか?
○ ○ ○
どうも、そうでなく私と心の主は別の物と仮定されているように思える。
心や想念は兼好に認識されているわけだから、この二者は事実あるとしか思えない。
にも拘カカワ)らず想いがコントロールできないから、「心に主はいないのか?」と、云う疑問になるわけだ。
が、心の主がないのに、何故このように問答ができるのか?
と、云う方向の疑問は思い付かないのだろうか?
あとの方の章で父親との思い出でなんとなく良い話でごまかしているような雰囲気もある。
と云うより、端ハナ)から哲学的思弁をしているわけではないから、エッセイとしてはそれでいいのだけれど……。
小生が勝手に話を掘り下げてるだけのことです。
まぁ、兼好は然程論理的に思考を詰めていない、ただそれだけのことだろう。
だから、テクスト自体は深読みする必要はない。
ただ、もう少しつっこんだら、自己、自我、無意識まであと一歩のところまで来てたのに残念だなぁ~。
とか、それこそ下らない妄想をしただけのこと。
○ ○ ○ ○
そこで、一遍上人を思う。
この方は、すごい。
ワタシが無いんだから。
ただ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の声だけ。
突き詰めると、そうならざるを得ないよね。
心はものをおもわざりけり。
と、言っちゃうんだからねー。
そこまで行ったら、死も何ともないんだろうなぁ。
羨ましいような、怖いような……
とか、思ったりした。
兀