罔兩庵日乗 mouryouan’s diary

私的思索散話妄言覚書

光厳帝と令和と「湛然虚寂」の意味,,20191028

光厳帝と令和と「湛然虚寂」の意味,,20191028
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白洲正子の「かくれ里」桜の寺の章。

光厳帝へのオマージュの章のキーワードが「湛然虚寂」だ。
「帝王後醍醐」(村松剛,中央公論)はまさに「異形の王権」(網野善彦,平凡社)であり天皇としては空前絶後の強烈な個性、ヘテロドキシーな方であられたのに対して、対する北朝光厳帝は実に日本の天皇らしい懐かしくも慕わしい人柄に描かれている。

(上記二冊はそこの本棚に並んでたが、光厳帝なんて忘れてたよ。反省)
  \(_ _)...スマン

ざっくり過ぎる要約。……

①まず、先帝花園天皇が「儒教の「湛然虚寂」の理を学ぶことが大切」云々と説いている。

②そして、後の光厳帝の突然の剃髪を、「天皇の孤独を、身をもって生きることの一つの表現だったに違いない。」……「精神の王者を志すこと」……「花園天皇に応えようとされた」

③諸国行脚の後、寺に籠られた晩年を評して、「「湛然虚寂」の理を体得された……寂しくも満ち足りた」云々と、書いているのだが、

➡ ➡ この 湛然虚寂 がよくわからない。

湛然:デジタル大辞泉小学館
[ト・タル][文][形動タリ]水が十分にたたえられよどんでいるさま。また、静かで動かないさま。
「―たる水の底に明星程の光を放つ」〈漱石・幻影の盾〉

は、わかる。

問題は虚寂だ。
虚弱ではない。……ワカットルヨ(*_*)

本当に論語にあるのか?どうも孔子っぽくない。響きが老荘くさい。

ので、勝手に老荘っぽく曲解してみる。
オイオイ 
 ……・ ・ ・ ヘ(_ _ヘ)☆\(^^;)

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老子16 致虚極、守靜篤~ 」
とある。

虚を極めるに致り、靜を篤く守る と、読むのか?
ま、老子の言いそうなことだ。

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また、道教文献らしきものでも虚寂をみっけた。

https://baguamen.at.webry.info/201404/article_29.html
より引用~

証道仙経(175)虚寂、自然、無極〔煉虚合道章 第十〕
内も、外も虚寂へと還る。
それを自然のままに養って、
功を満たして無極へと至る。
~中略~
自然とは虚寂なものであり、また無極から生まれたものなのである。

とあるのも同じようニュアンスか?
虚、 うつろ、無い、の意味だろう。
寂は、さびしい、しずか、死、の意味のうち。しずか、ではないか?

エントロピー極まった、empty で silent な 感じかな。。

虚寂とは、水を湛えるための器の空虚、無用の用、道の枢トボソ)=車軸の入る空間、大きく出れば陰陽のもと太極を形容する言葉。
で、その比喩的な心理的な境地。と、云うことを表しているのではないか?
どんなもんだろ??

(論語は、どこだかわからない~……。
章別のテクストしか見つからないから、検索かけれないし……無視無視💦)
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もスかすると、花園天皇が「カイ太子書」で言いたかったのは、
「寂しくも孤高に、王者の理を湛タタ)えよ(後醍醐みたいのはダメダメよ)」くらいの意味かもしれないなぁ。

しかし、「虚寂湛然タリ」、「虚寂の境地をゆったりと湛えよ」に読みたい誘惑にかられる。

心に、太極に通ずる万物を容れる空虚、を静かに湛える。
なんか、イイ。

光厳帝の遺した言葉も極めて老荘的だ。

「松柏塚上に生じ、風雲時に往来するもの是余の好賓にして甚だ愛する所なり」✳塚ハ墓ヨ

いやいや、甚だ僭越ながら毎々小生の語る所とまるで同じ。同感同感。

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追記 光厳帝遺風と令和

ふと思ったのだが、平成・令和天皇の理想、現在の象徴天皇アーキタイプ(無意識的な元型)は北朝の花園・光厳帝にあるのではないか?皮肉にも南北朝後醍醐への強力な反省が、逆に天皇家の現代への存続、唯一無二の象徴王制=天皇制を支えているのではないか?

その後、天皇家の系譜を見て気がついたのだが
光厳天皇は現代天皇家の直接の先祖なのだ!
実は、光厳天皇から5代の北朝天皇は歴代天皇126代のカウントには入っていない。
北朝6代後小松帝が100代天皇として正式にカウントされるが101称光天皇には子がなく、なんと光厳帝まで遡サカノボ)って8親等もはなれた102代後花園帝が継ぎこの血筋が現在まで至っている。
光厳帝が慕った伯(叔?)父花園帝の名を継いでいるところが意味深である。

やっぱり、オラ当てちゃったんではないか?! 

隠遁され崩御された常照皇寺をWebで調べる限りは昭和平成天皇の御幸の事実は確認できなかった。
が、歴代天皇の位牌は安置されている由。
うーん、気になる。。。

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どうでもいい蛇足

禅に「湛然常寂」と云うのが見当たったが、すこしニュアンスは遠退くようだ。なんとなく。
湛然は有名な禅僧の名前にもあるし、中国禅は仏教の老荘的解釈(これを格義仏教と云うらしい)だから、やっぱり老荘に通じるような気はする。

またまた因みに、常寂光寺の常寂は全く関係ない仏教用語のようですだ。