罔兩庵日乗 mouryouan’s diary

私的思索散話妄言覚書

「世捨て」も又、幸福への手段【3】,,20191028

「世捨て」も又、幸福への手段【3】,,20191028

「幸福であれ」これは要請である。
   ~タブン,ウィトゲンシュタインの日記ダトキオクシテイル……~

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□「生きる限りは幸福であれ」

まず、ヒトに関する限りは、その存在の時間を「幸福」、幸せ、に生きることが善き事、のぞましい状態である。 

例えば長生きすることは無条件で善き事とは限らない。生まれてきたことすら……

が、生きている以上は幸福であること、これは無条件で善き事である。
と云うのは、多分誰も異議は無いだろう。

……たぶん。これは説明する意味が無い事柄、即ちaxiom(公理) に属するのではないか?

この前提から始めなくては、生になんらかの価値や意味を持たせることが不可能になってしまう。

ま、トートロジーなのだが、幸福とは、「生きていることを肯定出来るような状態」と云うことなのか……

……取り敢えず、
「生きる限りは、幸福であれ」を公理として話しを進める。
それにしても、「幸福が生きる目的」は「まだ」同じことではない。

□「世界に目的は無い、よって生に所与の目的は無い」

あらゆる存在にも、存在の総体としての世界にも目的はない。(この、話は何度も書いている。)

上記二つの命題から帰結するのは、「そもそも無目的な生に目的を想定するならば、それは幸福であること、くらいではないか?」と云うこと。

「生きる目的は幸福であること」

は、自明ではないがヒューリスティック(結果オーライ的)に目的と想定することは可能だ、と云う限定付きで真なる命題としてイイと思う。
……煩瑣ハンサ)だけど、哲学するとはそう云う作業ですから……

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「幸福であること」であって、「幸福になること」では無いこと、、、んー。。これは、また面倒、、深い。。取り敢えず、パス✋

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□主観的な幸福は、私事としてしか語れない

世に云う「幸福」には「主観的幸福」と「客観的幸福」があって、客観的の方は語り合うことが出来るが、主観的の方は「本人が幸福と認めれば、他人は異議をはさむことが出来ない」類タグ)いのことだから、本人しか語る資格はない。

(因みに、主観的幸福がほぼ客観的幸福に収まる人種を大衆俗人と言って良いだらう。)

さて、じゃによって、私事をば少々、、、、。

□四つのタイプ

一 所詮この世は、その人一人一人に固有の分際に従って、手に入れられる金か時間の二者の総量は限られている。
だから、より多く得るのは金か時間か、はたまた半々か、選択しなくてはならない。
金を選べば自由は手放さなくてはならない。ニーチェの言う通り、勤勉と云うのは呪いなのだ。
逆もまた真なり。
自由を求めれば貧しさから逃れられない。

二 そして、ヒトは大別すると、「快楽をあきらめても苦痛を避ける」(NO快楽NOリスク)タイプと、「快楽を忘れられず、苦痛を忘れる」(快楽&リスク)タイプに分けられる。

∴ ヒトは2×2の4つのタイプに大別できる。
そのタイプによって幸福観も随分変わってくる。

小生は、金より時間。そして快楽無くても苦痛無き事を選ぶタイプ。
消極的静寂主義的幸福観。

金がなくとも多くの自由な時間がほしい。また、快楽が少なくとも苦痛の少ない生を望んでいる。

苦痛の殆どは人間関係から来る。
言い換えれば、世界と無意識との調整機能を自我がうまく果たせない個体だと云うことだ。
世界は悪くない。(と云うか世界の悪さは公平である。)
故に、自我が阿保なのか、無意識君が強力すぎるのか何れかだ。
自我はともかく、無意識君は、因果とか業に多く責があり本人は如何イカン)ともしがたい。
ま、その意味では天命である。

閑話休題、、、。(;_;)

そのような類型で、しかも或る程度類似のキャラクターの人間ならば「世捨て」は「幸福への方法」たりえるかもしれない。

いつの世にも、一定の隠者(志向)はいるものだからねぇ。

縄文時代石器時代?なら多数派であったかもしれない。
がしかし、現在は御存知高度生産高度消費(廃棄)、ハイパーアドバンスドキャピタリズム超高度資本主義の喧騒の巷チマタ)で御座候。

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□そして、妄言

散人(つまらない人間)妄言す汝妄聴せよ。。

小生にとっての、一義的な幸福のようなものの定義のようなもの。


精神とその影響下の肉体が、
葛藤なく、平安な状態。
退屈もしていないし、面倒くさくもなく、無気力でもない状態。
苦痛を感じていないし、無感覚でもない状態。
孤独を苦痛なく受け入れている状態。

いささか、非生命的諦念的消極的ではあるが、これが「私の幸福」なるもののようなのだ。

将マサ)に知命(50才)までわずかな頃、これ以外のことに対する努力や情熱は全て自分を不幸にするだけだったとわかった。
いささか遅きに失した感はあるが、死までの時間まで少しでも幸福でありたい。

……誉められるため努力したり、他人にみとめられようとしたり、人前に立ったて演奏したり、交渉したり、折衝したり、記録を求めたり、達成感に酔ったり、口説いたり、愛そうとしたり、真理を伝えようとしたり、会得したことを理解してもらおうとしたり……それは、全て無駄。

全て無駄。
話しは全て無駄。凡夫瓦石馬耳東風。

無用で精神を痩せさせ草臥クタビ)れさせただけで、何の得も利益もない事だった。

実に、死屍累々徒労と慚愧の精神の死骸の山。シナプスの糸屑。それだけの無為無駄五十余年。 
脳を萎縮し、肝臓を肥大させ、心臓を責め、肺を膿で潰し、酸と血を吐き、下血撒き散らし、弊弊厭として身を壊し精神を苛サイナ)み続けただけの人生。

くっだらねー。
やーめた、やめた。

故に、静かに心穏やかに葛藤無く生を全うするには、世を捨て、縁を切り陋巷ロウコウ)に逼塞ヒッソク)し、時に寒山渓谷に遊び、独り清貧を守る已。

身は枯木の如く、心は死灰の如し(荘子)
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「世捨て」は、覚醒したワタクシノ幸福。
その方法論、手段である。

皆、身の程精神の程に相応の巣穴を掘り、そこにもぐりこまなければならない。
たとえそれが気に入らなくとも。