非Aなる概念と孤独について 【哲学】
⚪AとBが対義的 である場合、つまりA=非B 非A=B。
独立した対義語 AとB が存在する場合。が、まずある。
これを、case-A・B とする。
case-A・B の例。
「善」・「悪」
「光」・「闇」
「白」・「黒」
「男」・「女」 ……等々
⚪独立した対義語がない場合。つまり
Aと非A として表す場合は、
case-A・非Aと表記出来るだろう。
この、caseには3種類あって、
Aに、善悪のニュアンスの無い場合がまずひとつ。
更に、このcase0=A・非A型
の、Aなる単語が「善、或いは好ましいニュアンス」を持つ場合を "a(善)" 、
逆に「悪、或いは好ましく無いニュアンス」を持つ場合を "a(悪)" と表記すると、
"a(善)" と、非"a(善)" で構成される対義の類を
case1=a(善)・非a(善)型、略して 善・非善型……2つ目
a(悪)と、非a (悪)で構成される対義の類を
case2=a(悪)・非a(悪)型、略して 悪・非悪型……3つ目
と表記できる、と思う。
⚪面白いことに、大抵のケースは、
善・非善型 のようだ。
これは、洋の東西を問わないので「言霊思想」と云う訳でもなさそうだが、所謂「予祝」(あらかじめ悪いことを考えない、好ましいことを言っておく、と良いことが起きる)と云う宗教概念が当てはまるのかも知れない。
⚪たとえば、幸福、しあわせ、と云う概念は
善・非善型 だ
幸福の対義語は、不幸で、不幸を表す独立した(幸を用いない)語は無い。
⚪同じく、正義 も 善・非善型 だ。
以下ネットにて……
「justiceの対義語は、injustice です。
正義の対義語 不正義、不義」……不正……
ま、あとは色々考えてみて下さい。
⚪面白いことに……皮肉な?か?、この世は「不幸」が常態だし、「不正義」が当たり前である。
にもかかわらず、不幸や不正義にあたる独立した言葉はない。
⚪ ⚪ ⚪
⚪さて、ここからが主題なのだが「孤独」について。
これは、珍しく
悪・非悪型 だ。
と云うか、孤独については、対義語の存在すらよくわからない。
一応、ネットで調べたが何となく腑に落ちない。
以下ネットにて。
「
連帯……
孤独 連れ立つ
意味 周囲にたよりになる相手が一人も居ないで、ひとりぼっちであること いっしょに行く。伴って行く。
和英 alone accompany……
」
その他、あまり賢いとも思われない戯言が色々かかれていた。
仮に 孤独の対義語を "非孤独" としておく。
……造語かも知れないが、今のところこれ以外に言いようが無いように思える。
しかしながら、どう考えても、人間の本質は、孤独である。
動物や自然に孤独は無い。
正確には孤独と云う概念が成立する余地がない。
成立する余地がないとは、以下の如し。
……山人曰く、
全てが闇ならば、光と云う概念が成立する余地がない。
光と云う概念が成立する余地がないのなら、闇と云う言葉の存在意義はなくなる。
つまり、全てが闇ならば、闇と云う言葉は無くなる。
地底洞窟で進化した目の無い魚には、闇は無い。
……云々、以上。
で、だ、
自然は連続している、個と群も、生と死も、自と他も。
われわれ人間だけが、自然の連続性から切り離され「私」として存在してしまっている。
バタイユの云う「失われた連続性」と云うやつだ。
孤独とは、この「失われた連続性」と云う事態の心理的表現だから、
非孤独とは、「連続性」と云うことなのだが、一般には「孤独の反対は連続性」では、何を言っているかわからないだろうから、非孤独でいいのだ。
あるいは、失われた連続性=人間の本質、なのだから、
非孤独=連続性=自然 でも良いのだが、
これでは一般人にはますます意味不明になる。
都会人には現実的なニュアンスとしては、自然=孤独ですらある。
人間は、真の自然のなかで恐ろしいほどの孤独を感じる。
一度、山の中で野宿をしてみるといい。
これは、本来は生物としては倒錯である。
しかし、人間的な事実でもある。
人間存在と云うものが、倒錯なのだろう。
何故、神は人間なんかを存在させてしまったのか?
まったく、うんざりする生き物どもだ。
以上
兀