罔兩庵日乗 mouryouan’s diary

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ロッキンロール と 慈悲【思想 雑】

ロッキンロール と 慈悲【思想 雑】

ロックは社会の扶養家族。宇宙人は地球人の保護生物(元のタイトル
)

いまでこそ、ロック・ミュージックは完全にコマーシャリズムに組み込まれた。
アナーキズムは粛清されヒッピーは絶滅し革命はお笑い草になり果て、不良も反抗も消毒されて、面取りされたカミソリ型のピアス、キチンと刃を落としたナイフをファションとして見せびらかすだけになった。

が、まだ70年代、いや80、90年代でさえ多少の矜持とか、反逆への憧憬を持ったロックミュージックは細々と生き永らえていた。
……いや、額面では、それがまだ、ロックのロックたるidentityとして面目を保っているはずだった。

過去を美化するわけではなく、そう云う時代があったというだけの話で、もう今は何処を探してもロックに反社会性も反逆のかけらも無い。
消毒薬どころか柔軟剤の臭いしかしない。

内田祐也氏の、ロッキンロール。
は、そう云うメッセージを込めた、死んでしまったロックへのオマージュなのだろう。
本人は、あまり賢い人ではないようだから、勘違いしていたのかもしれない。

ザザン某のような厚顔無恥なロックを僣称するものしか大衆は必要としていない。

で、その時代でさえもアナクロであった幻想を、ロックに託していた小生はセックス・ピストルズになるには早く生まれすぎ、教養もありすぎ、上品にもすぎたので、自然インプロビゼーションだのアバンギャルドだのな方向に進まざるを得なかった。

 ⭕ ⭕ ⭕

とは云うものの、そもそもがだ。
映画イージーライダーにえがかれた、ヒッピーのコミューンの荒涼たる姿が幻視(ビジョン)するように、ロックも含めてその手のカウンターカルチャーと云うものは、所詮

「高度資本主義社会の矛盾から出た不要なエネルギーを消耗させ、緩衝する為の装置に過ぎない」

つまり、十分豊かな社会のみが、不良や反逆者の戯言を聞き流してくれる余裕をぶっこいてくれるわけだ。

ひらったく言えば、
「ロックは社会の扶養家族」だと、云うことだ。

裕福な家族の経済に頼る不良。

この台詞は、十代の小生の言葉だ。
最初からわかっちゃいたのだ。
わかっちゃいるけど、やめられない。
と、云うことで、端っからまわりのロック研の人々とは違う世界を見ていた。

最初から形而上学者が間違って、ストラトキャスターを持っていたのかもしれない。

ま、マーシャルにプラグを指してボリュームをフルアップにして音を出せば、そんな能書きは不要になるのだが……
性根がそんなところにあるものだから、結局のところ、楽曲はどんどん難解になり、ライブは面倒になり、歌詞は哲学的になり、まわりから孤立していったのは当然のことだ。

生活もご同様で、家庭はなくし、女たちは去り、知古縁者とは交際を断ち、仕事は減らし、バンドも離れ、ますます思想は明確に、頭脳は鋭くかつ、酩酊の度も深くなっていく。

それなりに、バカではないし、計画性もあるので経済的に困窮はしないように手を打った。
一度死にかけたが、今のところなんとか病院のお世話にもならず、世間との交わりを断ち、テレビも無くし新聞も読まず愚かな雑音から離れ、完全な孤独を楽しんで生きている。

無責任に高みからへらへらと皮肉っぽい目で日本を見ると、愚かと言うも虚しく同朋の虜粧に茫然言葉を失う。

しかしながら、社会から背を向けたものが、その社会をよしとしている人々に何か言う権利は無い。大きなお世話である。
……小生には、北朝鮮マスゲームと我が国の少年サッカーに違いがあるとは思われない。
将軍様とマスコミ様の違いがあるだけではないのか?
……
これは全く嫌みでも非難でもなく、人生の価値を社会の中での評価だけにおいてしまえば、それが将軍様にみとめられることか、有名になり金を稼ぐことか、と云う別の社会では、別の生き方がそれぞれ良しとされる。
あたりまえのことである。

(誤解無きよう。マスゲームやサッカー…登山でも戦争でもいいが、その達成感だの精神性だのを取り上げているわけではなく、「何故、それがサッカーなのか?」と云う側面を取り上げているだけだ。一昔前なら野球だっただろう。ホッケーでも、水球でも、ハンドボールでもなく、何故サッカーなのか?……)

ただ、彼の国では「自分の頭で考えて、自分独自の生活をすること」は、許されていないが、我が国では許されている。
許されているからと云って、そうしなくてはならない法はないので、大多数の人間は社会の慣性の法則に従い惰性のまま生きるわけだ。

慣性が、独裁者の軍事路線だったり、高度資本主義の拝金主義だったり、イスラム原理主義だったりのvariationがあるだけだ。
考えないことこそ、大多数の大衆の特性なのは洋の東西時代を問わない。

本を閉じて、テレビをつけよ。
自ら考えるな、新聞を信じよ。
ソラ・スクリプト(聖書のみを信じよ)アーメン。

それが、この惑星地球を占拠するもっとも有力な生命体の特性だ。
つまり、地球人だ。

それに対して、形状は地球人と同じでも、まったく違う行動原理をもって生きる生命体は、生物学的・延長的にはホモサピエンスなのかもしれないが、精神的には別の生命体と云える。

自らの用うる、抽象名詞(善悪神世界愛正義平和民主主義……)の定義を確定する努力を惜しまない。
自分の辞書を作り、それに従い考える。
自らの言動に整合性を求める。
事物の科学的、歴史的事実に価値を置く。
社会道徳に盲目的にしたがわずに自らの倫理を構築する。
美を感じる前に訓練をする。
常に自らを凌駕する絶対的なものに目配りする……
……このような、一般地球人とはまったく別な傾向を持つ生命体は 宇宙人 といっても良いのではないか?

宇宙人は僅かしかいないのに、個々すべて、べつの特性を持つ。
絶対的に孤独である。
地球人は何億人いても、基本的には同じ精神構造を持つ。社会環境で別に見えるだけである。
基本的には、孤独を免れている。
幸福はどれも同じに見える。不幸はそれぞれが独自性をもって見える。

宇宙人は連帯しない。と、云うより少数過ぎて出会うことすらまれである。

だから、地球人の中の、慈悲深い人々の好意を頼って生きるしかない。
たまたまの、エゴ。正論を吐きたいと云うエゴも、慈悲深い人々に許される範囲を超えてはならない。

つまり、
「宇宙人は地球人の保護動物」。

レッドデータ、生かすも殺すも人次第。

地球人の慈悲に感謝し、生きさせてもらう。
逆らってはいけない。
異人(エイドス)は同化するか殺されるしかない。

調子にのり、寵愛を失えば孤独の荒野で野垂れ死に
神より前に、地球人様様。赦したまえ。

で、ロックをやる宇宙人と云うものは、もう何とも言い難い、保険適用の3重苦で生活保護を受けているようなものだ。

これ以上、地球人に迷惑がかからないように静かに目立たず世間の片隅で息をひそめているのが相当だろう。

宇宙人を探すなら、山か図書館が確率が高いかもしれない。