罔兩庵日乗 mouryouan’s diary

私的ナ思索ト逍遙ニマツワル散話妄言覚書キ

『神の必然』 について 【哲学 生活】

『神の必然』 について 【哲学 生活】

キリスト者なら、神の意志 と言うのだろうか。
ネオ・スピノチストたる小生なら、(ほぼ)『神の必然』と云う言い方になる。

神即自然に意志はないし、神即自然はなにも求めないから、~必然、なんて変な表現にならざるを得ないが、神を擬人化してしまうキリスト教的危険に陥らないよう心得た上で日本語を使うならば、神の必然も、神の意志も
同じような事態をさすと言っていい。

賢サカシらな行いを捨て、最も自然な因果に運命を委ユダねること。

ではないのかなぁ。とは、いささか荘子的な菅見ではあるが、おおきく外れてもいないのではないか。

さて、なるべく手早くまとめるが、最低限の回り道をば、、、

自然。と云う言葉には二つの全く違う意味がある。
(以下は愚考にてウィキ等とはやや異なる。)

ひとつは、「宇宙や地球のありのままの野性、環境、生命体……」
自然林とか、自然公園、自然界……とかの自然。

もうひとつは、
「人間と人間の意志の加わらない因果の流れ。」
自然に、自然体で、……

------
蛇足。
最初のはコラプス(物体)にあたり、後のはメントス(精神)にあたる。そして、スピノチスムでは2つは対応している。だから、同じ言葉の2つの意味でいいと云うことになる。……これも、菅見。
辞書的には全く違う。(両者、原義は人為を捨て、から来る故、とか)
------

この、あとの方の「最も(賢しらを捨て)自然(の因果のまま)に人生の事態に対処する」事が、『神の意志』に叶うことだと愚考する。

無理をしない、とは云うけれど、何が無理かはなかなかわからない……。

------
蛇足。
これは、必ずしもキリスト者の思惑内には収まらないかもしれない。
宗教、とりわけキリスト教は狭量な道徳に拘る故に。
これは、多分に老荘の徒たる者の視点が混入してはいる。
------

さて、表題の『神の必然』にもどる。

自然(神)に意志も目的も認めない、ある意味現代ではあたりまえな(しかしながら唯物論的では全然ない)、スピノチスムは常に「過去に対しては肯定する」。

だって、実際そうなっちゃったんだもん、なるべき理由は必ずある。
……遅刻魔は必ず言い訳を持っている。

厳しい、ときに嫌な表現だが、起こってしまったことはすべて「神の意志」にかなっている。と、云うことになってしまう。

(浄土真宗で、「日頃の往生」などと云うのも、似たような伝)

が、
🔴未来は過去とパラレルではない。
ここのところが、スピノチスムに対する誤解と云うか最も分かりにくい点だろう。

……確かに運命論なのだが、運命に対する考察の深さが恐ろしく深いのですよ。……

すべて起こって終った事は神の必然なのだが、これから「為すべき」事は、まだ我々の自由裁量のうちにあるのだ。

何故なら、我々は神でないのだから。
未来は神にとっては閉じている(これを永遠と云う)が、笑われにとっては「まだ開かれている」。

……言い訳する遅刻魔は未来を閉じている。神の愛を捨てている。運命に受動である。

✳ ここんとこは、スピノチスム最大の難解なところのひとつだから今は、説明しません。

------
蛇足。
色即是空 の分かりにくさとかなり似ている。
空即是色 が、まず実感できなければ、色即是空の意味などわかるはずがないし、もしわかったとて何の効用もない。
効用がないのなら、何のための宗教なのか?
坊主の金儲けか?ってか、坊主わかってんのかな?
救われなくては僧堂伽藍八宗大蔵一切虚仮。
悪人末期の一念仏に敵わず。

-------

その、開かれた未来に対して『神の必然』をおもんばかると云うことが、スピノザの台詞では

能動的な生

と、云うことになると小生は解釈している。

そして、自らの好むところの行いがこの、能動的な生に知らず知らず(自然)に対応するならばこの状態を

神の恩寵 
とか、栄光 とか、呼ぶのだとこれまた小生勝手に解釈している。

(孔子の「六十にして……」ってのと似ている。)

そして、これは必ずしもそうなるとは限らないが……

🌕神の必然から大きく踏み外したときに、神即自然は何らかのメッセージを送ってくれるものだと、またまたまた小生勝手に思っている。
何故なら、この年まで生きてきてそのような事があまりに多かった為。
(これは、スピノチスム的ではなく精神分析的に説明することも可能だ)

その、メッセージを己の疑心暗鬼と分かち、正しく聞き分ける能力。
従い方向を見つける能力。

それが、(突然ですが)山で遭難しない能力である……事は、山に長くいた者なら必ず賛同してくれるものと思う。

人生だって同じことではないか。当たり前の事だ。
皆何故か、山は危険だと言いながら、人生は安穏だと勘違いしている。

山は人生の縮図。濃縮版(笑)

神は大抵、メッセージをくれている。
これは「神の知的な愛」の一部である。

ときに、具体的に救いの手を述べてくれる。
これを「神の外的援助」と云う。

だから、神の恩寵を受けることは誰にでも出来る。

その、用意さえすればいい。

何が、神の愛を妨げているのか?

それは自ら悟らなければ意味がないし、効果もない。

- - 以上、訳あってザクッと急いだので、かなり雑でベタな説明だが学者先生のカンジョを乞う。って、だれもよんでねーよ(笑)