罔兩庵日乗 mouryouan’s diary

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自由と孤独 【世捨て入門~015~】理論編 『孤立無援で、何が悪い?』 

自由と孤独 【世捨て入門~015~】理論編
『孤立無援で、何が悪い?』 
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筆者註記➡13として書いてあったが、UPを忘れていたみたい
(/-\*)テヘヘ
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取り敢えず辞書的に 自由 の意味

1自分の意のままに振る舞うことができること。また、そのさま。
2 勝手気ままなこと。わがまま。

3 《freedom》哲学で、消極的には他から強制・拘束・妨害などを受けないことをいい、積極的には自主的、主体的に自己自身の本性に従うことをいう。つまり、「…からの自由」と「…への自由」をさす。

(自己自身の本性……なんだか、わかりませんが……
自己も、ひいてみたがますますわからない、と云うか異論あり。で、自己・自我・ワタクシなどの定義・使い分けは、いずれどこかで書ければ書く。)

4 法律の範囲内で許容される随意の行為

…………んー( -_・)?

本来の日本古来の語の意味は禅に由来する2でしょう。
すなわち、本来は悪いニュアンスだと思います。
1はあまりに言葉に対して鈍いので無視して良いでしょう。……だって、自分の肉体すら自分の意のままになんてならないんですから……


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自由 と 孤独 は、単なる正の相関関係ではなく、同一軸方向の強い正の相関関係を持っているように思えます。
(うまい、表現が見つかりません。)

つまり、「一方が増えれば、他方も増える」と云う以上の親しい関係にあります。

しかしながら、自由と孤独は同じことではない。でしょう。

二者の関係を云うならば、寧ろ、「孤独で無い」と云う概念を持ってきまセウ。

◎実に不思議なことに、我々はこれほど「孤独」を恐れ、「孤独で無い」事を希求するにも関わらず、「孤独で無い」状態を直接指し示す語彙を持たない。ヤウデス。
「連帯」「共生」どれもちがう、「非孤独」とでも言うしかない……

これは、看過できない不可思議なことではないでしヤウか?
菅見では、「言葉がそもそも、孤独で無いことを前提にして存在する事」に深い関係があるように思われます。

閑話休題ソレハサテオキ

『「孤独で無い」事と、「自由」の総和は決まっているのではないでしょうか?』

孤独と自由は、別の独立した事象ではあります。繰り返しになりますが、
『孤独が多くなるほど、自由も多くなる』
ように思われます。あたかも、

『「孤独で無い事」と「自由」の総和は決まっている』
かのように。

(想定される反論への返答で手間をとることは止めます。こんなことは、気に入らない方、或いは自分の頭で考えたことの無い方とは水掛け論にしかなりませんから。)

さて、問題は一般には、
人は「孤独で無い事」と自由を、相反することなのにも関わらず、同時に好む。
ことではないでセウカ。

俗に云う、パイの取り合い、とはすこし違いますが、
「孤独で無い事」(愛だとか友情だとか……)と「自由」の案配に苦慮するわけで、ここに様々な安物の歌詞やらソープオペラの台本が生まれるわけです。

いや、正確には事情はチト複雑です。
飽くまで一般人は、「自分は自由を好むと思い込んでいる」のは間違いないのですが、それが真実かどうかはかなり怪しいのです。

世の人は然程サホド、「自由など好んでいない」ように見えます。……飽くまでも小生には。

みな、自由なんて要らない。孤独(=自由)なんて真っ平。

「孤独」でさへなければ如何なる苦痛も耐えれる。

所詮イワユル、殺人的満員電車と引き換えの金で購アガナえる自由?……おっと、また口は禍ワザワイ……。

このことも、反論への反論の労は惜しみます。失礼。

「孤独で無い事」と自由との逡巡シュンジュンの場面と、「自由を好むとの思い込み」との板挟みの再帰的ミクスチュアが劇にバラエティーをもたらすわけです。

「俺にはコミック雑誌なんて要らない。俺のまわりは漫画だから」頭脳警察~内田祐也

ま、これもこれ、人生の機微、(トーマス・マンの登場人物の言葉の名訳を借りると)ネ~ンゲンらしさ、と云うものでごさいましょうが、小生のような無精者には七面倒としか思われません。

別に欲しくない自由なら、惜しみ無く手放して「孤独で無い」……例えば、村落的連帯感、宗教的狂信……のまどろみを楽しめばいいわけです。

法律の範囲内で。オウムはダメよ❌

また、本当に必用な自由なら、筋道立てて妥協の境界線を引くしかありません。 
例;
孤独を癒してくれる(癒し;まぬけな言葉ですねー)暖かい家庭と、🔛多数の異性との自由恋愛

は、両立しないことは明らかです。どちらかを、あきらめるのが合理的判断と云うものです。

しかし(ん?よって?か……)、横着者、面倒くさがりや、でありながら物事を論理的に筋道立てて考えれてしまう人ならば、もっと素敵にスッキリしたやり方があるではあーりませんか。

ひとつは、先に述べた、
「自由を放棄して、「孤独で無い」まどろみを選ぶ」ことです。
狂信的な宗教信者とか、会社に疑問を持たない会社員とか、組織のためなら血税をどぶに捨て続ける公務員とか、非戦闘員女子供構わず虐殺する兵士とか、ま、色々いらっしゃいます。(全部合法!万歳!)
それは、それで大変なことです。自らの無意識を抑圧し続けるわけですから。いつ無意識君に復讐されるかわかったものではありません。

もうひとつは、
「自由と孤独を受け入れる」
さすれば、自由は己のabilityの限界まで手に入れられる道理ではアーリマセンカ(古っ、ゴメンクサイ)

ま、本題はここにあるわけですが。
これも、容易いことではありませんが、が、何せスッキリしている。厄介が無い。
自業自得だから諦めがつく。

あとは、慣れること。何事も訓練であります。

以上……じゃなくて

ついでながら、
もう少しましな、自由の定義を試みてみます。
『自らが論理的に考察し、結果を受け入れる決断をした事の実行、を束縛するあらゆる(実在する、しないを問わず)他者を拒否すること。』
いまいちだなー。而後洗練させる所存で御座居ます。

これも、かなり危険な定義ですが、ニーチェラカンより余程まともだと思われます。

やつらヤバ過ぎ。

「欲望に譲歩してはならない」ラカン
ねぇ〰~~。

で、言いたいことは、

『孤立無援で気持ちいくって、何が悪い?』

兀狄山人記