罔兩庵日乗 mouryouan’s diary

私的思索散話妄言覚書

図書館通い

図書館通い
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本を読まなくなった。
山にも行かなくなった。
ギターも弾かない。
料理も手抜き。

何にも興味が湧かない。

廃人にならない為に少しは脳ミソを動かさなくてはならない。

そのためには、
第一に、面倒でも寒くても旅に出なくてはならない。

第二に、哲学以外に頭を使わなくてはならない。

哲学は内側に沈潜するばかりで何処にもつながらない。

多少でも世界とつながりのある事で興味湧く物事の火種を吹いて、コツコツと炎を育てて焚き火にまで持っていかなければならない。

 と、云うわけで今月は図書館通いしている。
借りても家では読まないので、講義を受けるように図書館で継続して同じ本を読んでいる。

今月は6日通った。旅とサウナと医者で9日、月曜(本日も)の休館日以外は通っている。
天気がいいせいもある。

とりあえず、多少興味の残っている物理学。できれば数学も思い出したい。

まず、初歩の初歩。
現在の物理学のパースペクティブを得ておかなければ話にならない。

何となくわかったつもりでいた、量子物理学と天文学を整理するために、ニュートンの別冊は素人向けだからわかりやすい。

1日 90~120分読むと、講義2本分くらいの知識は得られる。
一般に講義のスピードは読書よりずっと遅い。

やはり、東大駒場YouTubeを何本か見たが、映像より活字の方が(内容はともかく)頭に入る。

とりあえず、量子力学の入門書を読めるレベルまで飽きずに続けて、ヒッグス粒子が確認された。とは、具体的にどう云う事なのかとか、理解出来れば良いのだけれど、、、

故事成語解釈異論:おうた子に瀬を教えられ

おうた子に瀬を教えられ

渡渉の途中に背負った子供に浅い瀬を教えらて、そっちを歩いたら、滑って転んで二人とも流された、、、

解釈異論:渡渉するときは絶対大丈夫と自信のある場所ですること。途中、ひとに教えられた楽そうな経路に、よく調べもせずに変更しないこと。

以上  

ラヂオ、電波系、科学的、幸福、精神分析

ラヂオ、電波系、科学的、幸福、精神分析

●●●生けるラヂオ
『ヒトは、ラジオのようなものではないか。』

と、云うのが今のところの、ワタクシの洞察の到達点です。

機械論と現実の整合性をとると、そう云う事になってしまう。

決して、放送局でも、コンテンツメーカーでも、ニュースソースでも……無い。
ニュースの事実そのものは(天から降ってきた様なもので)変わらない。話すヒト(タレント、芸人、アナウンサー)は入れ替わり。
シナリオに多少のオリジナリティーはある、とはいえプログラムされているテンプレートである。

ヒトは話したい生き物である。聞いているふりさえしてくれればいい。実質とか内容なんかソモソモ無いのだか。……老人達の会話を聞いていると、情けないことに、これがヒトの本質だと知れる。

Confusion and nonsense is my Epitaph.

●電波系
ヒトは何故あれほどまでに、電波系を嫌悪し、恐れ、遠ざけるのか。
その理由は、ヒトがそもそも電波系だからではないか?
“うまくツルめた…いじめられる側でない……電波系”……ギリギリ首の皮一枚で“マトモな側=勝ち組”にいるだけ、その認めたくない、或いは深層心理に押し込めたことをマザマザと見せ付けられる不快感。

ワタシがキチガイのわけがない!!
ワタクシは、ヒトである!!

●●科学的
科学とは、“科学的と云うルールのゲーム”

それだけのこと、つまり、手続き関連の諸々の呼び名である。
このルールのゲームはヒトと地球環境に著しい変化をもたらした。
それは間違いない。ほとんどろくでもないけど。…そしてそれだけの事である。

例の反証可能性云々は一種イデオロギーのコピーライトであって、反証可能性と現実の運用(最近流行りのエビデンスとか)の間には途轍もない径庭がある。

そして、反証可能性のあるゲームだけではヒトは幸福にはなれない。

科学のルールは超越論的な範疇には適用出来ない。

●幸福
幸福になる必要が無い。と、云うならば話は別です。  

余程頭の弱いヒトを除けば、幸福とは何か?を考えるならば、超越論的な範疇に踏み込まざるを得ない。

あらかじめ言っておくと、超越論的な議論が必ずしも形而上学であるとは限らない。

カルト宗教も超越論的です。

で、どちらにせよ、当然、超越論的な範疇には反証可能性は無い。

○依って、科学的な営為では幸福を語ることは出来ない。 

やはり、正しい、つまり被害の少ない、
形而上学、或いは哲学的宗教、が必要です。
――――
蛇足ですが、科学的な営為で幸福になることは十分可能です。

が、これはどのジャンルにでも云えることです。 
ガード下の浮浪者…多分にスキゾフラニー(分裂症)的な…は、とても幸福そうです。

事実。科学者もかなり幸福そうです。

狂信者も彼ら自身の楽園を持つ。と、キーツも書いています。

科学者も間違いなくカレラの楽園にいる。
ただしその楽園には、誰でも入れるわけではない…他者を巻き込み経済活動に自らを埋め込む“電通的な”努力が必要です。
―――――――
話を戻します。

幸福と云うのは、公理の様なもので、生きている以上反論してもせんないものではないでしょうか?
 
幸福であれ。たとえ自らが死んだとしても。いわんや、ヒトを殺しても。

精神分析
フロイト=ラカン精神分析は、超越論的なオハナシです。
だから、反証可能性は無いし、科学ではありません。

臨床と云う、現実とか、モノの話とか、のふりをして誤魔化しているだけで、本質は“キチガイの治癒とは無関係”な“マトモなヒトの幸福の為のオハナシ”だ、
…と、考えるならば、色々納得がいく。

ラカン形而上学や哲学から距離をおいていたのは、本質が露呈するのを恐れてではないでしょうか?

事実、精神分析では精神病患者はほとんど治癒しないようです。
回復…即ち再入院しない率は0.3%以下だとか。

行動主義心理学に関してはここでは無視します。…

もう、ラカニアンも臨床家であることは諦めて、一種の哲学的宗教家を標榜すれば良いのではないでしょうか?

精神病患者の治療は無理でも、誰かを幸福にするテダスケは出来そうに思えます。

御察しの通り、小生はラカンの思索の一部をも(彼がやったように)都合よく切り貼りして、ワタクシの形而上学を作り上げようとしています。

形而上学
当然ながら、ヒトである以上、世界或いは宇宙或いは全存在界を知ることは不可能に決まっています。

宇宙物理学者って何様のつもりなんでせう??
宇宙が数式で書かれてるって、本気??

形而上学の目的は端的に 
『破綻しない幸福』です。

その為の指針として最低限必要なことは、ホワイトヘッドに倣い

整合性を保つこと。
現実の科学的事実に矛盾しないこと。

の、二点で良いと思います。

以上
とりあえず、ここまで。

心とコトバとシニフィアン ―全てはコトバの問題2―

心とコトバとシニフィアン ―全てはコトバの問題2―

■心の範疇
第一の層に続く第二の層。
「心はコトバで出来ている」
これは、精神分析フロイトラカンの層です。
心は世界(前述の意味で)より小さいような気がするので、

この命題に反射的に疑問、若しは反感を感じる人も多いでしょう。
 その、疑問乃至は反感は当然で、詳細は後に譲るとして、ここで2つだけ簡単に弁解と云うか、触れておきます。

 1つは「霊や魂魄」の問題です。
本当に「コトバだけ」と、未知或いは不可知な存在を切り捨てていいのか?
所謂「魂に対する態度」の問題ですね。

これは、そもそも私がデカルト二元論的に世界をとらえていないので問題にはならないのです。

つまり、
世界(全存在の総体)は、
「延長(モノ)と精神」からなっている。
との前提に「心」はカテゴライズされていません。
――――――
「世界」は曖昧なタームなので、爾後、ハードな実在論的(※)な意味での全存在の総体を「全存在界」と云うことにします。

※いつか問題とします。

人間(私)は全存在界において、延長(モノ)と精神(心)の属性しか認知できない。
が、それ以外の第三以上の属性は存在するとすいそくされる。
 第三以上の属性とは具体的には、生命現象、死後の世界、気、霊、あり得ない記憶を持つ人々、魂、シンクロニシティ……これら現段階では僅かしか理解出来ない事々を一括して呼んでいる。
これらを、二元論では精神にカテゴライズしているようだが、小論では別にカテゴライズする。
 (ちなみに、私の問題とする「神」の問題はこれに含まれない。むしろ、これをも含む。)
ゆえに、魂等に関する問題は、心に含まれないので、ココでは、「特に必要な場合以外は、無視」でオッケーなのです。

 ――――――
 勿論、今あげた第三以上の属性以外にも夾雑物があるかも知れませんが、とりあえず問題となるまでは無視して話をすすめよう。と、云う方針です。

整理すると、

・まず霊魂は心と別。
・それでも、心はコトバ「だけ」で
出来ているのではないかも知れない。けれども、とりあえず「コトバだけで出来ている」として様々なことを説明しても殆どの場合問題がないし、寧ろスッキリと理解しやすい。
・だから、とりあえずコトバだけを問題にすれば良い。』

精神 = コトバ + 霊魂等

心 ≒ コトバ

 ○ ○ ○

 今1つは表象像(視覚画像、音声等、所謂マルチメディアデータですな)と心の問題です。

 これに関してはまだ学問的にも定まった解釈があるわけではありませんから、全くの管見ですが、
「表象を問題とするとき、ほぼ全ての場合コトバがインターフェースを果す」
のではないか、と考えます。

よって、これも取り敢えずですが、
『心的な表象の問題は、直接の表象が心に関する考察にとって支障となるまで閑却しておいて、インターフェースたるコトバのみを問題にしておく。』
と、云う方針ですすみます。

 ○ ○ ○   
シニフィアン    

とりあえずコトバと書いていますが、
ラカン的に云えばシニフィアンです。

シニフィアンとは、意味するもの、示す言葉で、シニフィエは、意味されるもの、示される対象・物や概念です。

リンゴ、アップルがシニフィアン
実際の🍎がシニフィエ

ですけど、シニフィアンは日本語で
【聴覚心像】と書くように、本当は林檎とかappleと云う「文字」ではなく、「音」の事を表します。

  ここは、とても重要です。

精神分析の扱う「言葉」とは、「聴覚心像=音韻としての言葉」です。

 心は音で出来ている。のです。

 シニフィエシニフィアンは勿論ソシュールの用語ですから、ラカンも基本的にはソシュールに準じた使用をしていますけど、少し独特なところもあります。
その点は必要ならば触れます。

さて、言葉 や word と言う場合はたぶん、音と文字(視覚像) 両方を表すのでは無いでしょうか。

 ○ ○ ○

で、ことば、にはもう1つ ヨハネ福音書冒頭の
「はじめにことばありき」
のことば。があります。
原文ではlogos。英訳ではwordです。

In the beginning was the Word

これに関して、よくキリスト教教養書に出てくるのは、
logos  =キリスト(の言葉) です。
に私は異論があります。ヨハネは曲者です。

ついでに、ヘラクレイトスについても
logos =真理、法則 
と、よく書かれていますけど、これもまた異義異論があります。
そもそも、日本語と単語レベルで対比させることが可能だとは思えません。

ストア派のlogos が論理の意味であること。これはとりあえず異義無し。です。

脱線しました。

 私の使う「コトバ」は、wordとは違いますし、時にはシニフィアンとも同じときもありますが、多くの場合少し違います、因って、今暫くはコトバと表記します。