罔兩庵日乗 mouryouan’s diary

私的ナ思索ト逍遙ニマツワル散話妄言覚書キ

『兀狄山人漂泊録』は、こちら↓↓↓

『兀狄山人漂泊録』は、こちら↓↓↓

http://gotuteki.hatenadiary.com/

主題は、旅 と 飲食。

【山】【旅】【散歩】【ポタリング】【UL】【MYOG】
山と山道具、UL ウルトラライト MYOG メイク ユァ オウン ギア(山道具自作)、歩き旅、自転車旅、野宿、聖域と遺跡巡り

【食】【業務スーパー
B級グルメ 業務スーパー 料理 等

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こちら、『罔兩庵日乗』
主題は、哲学思索読書等の覚書。

……極主観的私的個人的な
突発的思い付き、形而上学、哲学、思想、思索、菅見、私見、散話、妄言、極論、暴論 等々 の
覚書 ですので、気に障ったら 通り過ぎてください。

罔兩庵日乗御挨拶↓↓
https://mouryouan.hatenadiary.jp/entry/2018/09/20/042102

罔兩庵主人 兀狄山人 gotuteki sanzin

哲学的宗教と プログレッシブ宗教哲学【哲学】

哲学的宗教と プログレッシブ宗教哲学【哲学】

ワタシがここで哲学的宗教 と云う言葉で意味することは、例えばスピノザ主義のような哲学的な形而上学、それが昇華して宗教へと結実するものを意味する。
具体的には、エチカEODGの内容を抜粋し整理して、些細な個人的な儀礼を決めれば誰かにとってのスピノザ教になるわけだ。

これは、現代における唯一の正しい宗教の形(の一例)だろう。

…………。。
ディックは彼なりに完成させていたのだろうか?
VARISのテスタメントは、小生には部分的にしか理解できない。
そもそも、グノーシスの世界観は複雑さゆえ脆弱すぎて好みにあわないし、納得できない。
神学に来世とかの概念を導入するのは理論的にリスキーに過ぎる。
スビノザのDSN(神即自然)の方がアイデアとしてシンプル故に強固に思える。
一般に二元論より、一元論の方が論理的破綻が少ないような気がする。

話を戻す。

これ以外の形の宗教は、正しくない。

少なくとも、知的な現代人にその経典を信ずるのは無理だ。
社会道徳だのの便宜や方便としても、かっては有効だった部分もあったかもしれないが、今は害の方が圧倒的に多く、経済倫理的にも有害無益な存在である。

勿論、どのような無理無体非合理な思想信条でも内心持つことは自由だ。
この世のほとんどは、金と世間体しか考えていない忙しい人々なのだから、中にはいまだに自ら喜んで既存宗教のカモになりたい人もいるだろう。
どうぞ、ご自由に。

ただ、狂信の強要や、伝染は有害無益なので慎んで頂きたい。
ましてや、墓質(檀家に対して、墓が寺にあることをもって、各種寄付や儀式参加、訪問に対する金銭を強制強要すること)などと云う無法な詐欺強奪は言語道断である。
それこそ、釈迦の恥だ。

人間とは出来損ないの試作品だ。
精神は予め病んでいる。
……欠陥OSに、使いにくいシェル、バグだらけのアプリに、繋がりにくい回線でなんとか運用している瀕死のシステム……バージョンアップは無し。

だから宗教が必要だと云うのは正しい。
ニーチェ曰く、真実は醜い。偽の楽園が必要だ。
しかしながら、芸術や哲学は万人には無理がある。
宗教なら、なんとかなる。

しかし、その宗教が既存教団であってはならない。
彼らは2千年かけて失敗し続け、害毒を垂れ流し続けたのだ。
もう、信用するのはやめては如何だろうか?

では、現在の既存宗教が果たしている役割、葬式などの儀礼慣習はどうするのか?
そんなことは、小生が考える義理は無い。
各自、宜しくいたされよ。

とにかく、あらゆる既存宗教は有害無益でなるべく早く世界から歴史的な遺物となり果ててくれ。
その醜い愚かな姿を消すべきである。

が、しかし、これは実際は無理である。

何故なら、大部分の人類は、まともに哲学的宗教などと云うものを考える力はないからだ。
自分で考えれぬものを頼るならば、合理的でも非合理でも大して変わりはない。
心理的不安につけこまれ、いいように利用されるのは目に見えている。
水晶玉か清き一票か?……その程度の差だ。

これにかんしては親鸞が正しい。
「よきひとだのみ」すべからず。だ。

そもそも、
『哲学的宗教とは、一人一宗派であるべきだ』
そもそも、 
教団と云うシステムが悪の濫觴ランショウである。
仏陀エスのむかしは兎も角、今はもう教団の庇護がなくとも個人の思想は裁かれない。
寧ろ、集団は必ず自己延命のため堕落し、成員を犠牲にし、不善を為し、争いの種となる。
集団は多かれ少なかれ日本陸軍である。

個は腐敗しても消えるだけだが、集団が腐敗すると疫病の災禍をもたらす。

--------
ん?
教団と、既存宗教は罵倒しても批判してもきりはないが、表題の 宗教哲学 だ。

宗教哲学とは、普通に考えると、宗教を人間の精神活動のなかに、一般論として位置付ける仕事なわけだろう。

道徳規範に還元するような片手落ちの立場から、絶対者(キリスト教的だなぁ)との関係を掘り下げたり、個人の心理からとらえたり、哲学の方へ統一しようとしたり……ま、時代と立場により色々だ。

色々だけど、
⚪なんか無駄な仕事をやってるな~、って感じる。

ここからは、アカデミックな話でなく、完璧に菅見となる。

整理して、順に。

・人間に宗教は必要である。

・宗教にはたいてい固有の世界観があり、それは形而上学と対応するが、それだけではない何か(ヌミノーゼとか)がある。

・故に、どうやっても宗教を純粋な思想や哲学にとりこみ解消(無くす)することは出来ない。 

・そもそも、宗教に真理も整合性も無い。幻想であり、作り話であり、出来損ないの人間と云う生物を補完し治癒する装置でしかない。

・既存宗教は、一定の役割は果たしてきたが、今や道徳的にも政治的にも経済的にも弊害だけが著しく大きい。さらに、その神学は現在の水準の知性ではとても信じることはできないので、なるべく早く消滅させることが人類の利益だ。

⚪よって、↓↓↓

・人類は、新しい正しい宗教を必要としている。

・その、正しい宗教は、哲学的な形而上学を基礎として、現代社会に抵触しない宗教固有の要素を持ち、できるだけ非組織的で個人的なものであるべきだ。
少なくとも、組織的でない宗教が新たな宗教の中核になるべきだ。
何故なら、いままでの既存宗教の残虐性や弊害は、その集団性と権力指向がもたらしたものだから。

・非組織的な、正しい宗教を一から個人が作ること現実的には不可能なので、宗教を作る上で、その雛形なり、規範なり、プロトコルが必要だ。

・そのため哲学は形而上学を用意することと、宗教固有の何かが社会や道徳に反しないようなガイドラインを用意すべきだ。

宗教哲学 とは、その
形而上学 の規則と制限
宗教固有の何か の、規則と制限
宗教形成のプロトコル
運用上の規範
さらに、可能ならば、テンプレート

などを与えることを存在意義とすべきと考える。

例えるならば、個人的な哲学的宗教を新しい個人の
OS オペレーションシステム と、するならば
宗教哲学 は、
TRON のような、OS そのものでなく、
OSを成立させる約束ごと、プロトコルとなるべきではないか。

と、云うのが本論の趣旨。 

いままでの宗教哲学より、かなり突っ込んだ役割を担うわけだから、今までの区別して呼ぶならばだ、例えば

プログレッシブ宗教哲学

とか、如何でしょう?ナンチャッテ……やや本気……

と、一応話には落ちがついた。

--------
以下余談。。

既存宗教に厳しすぎるようだが、歴史と現状をみる限り、致し方ない。

宗教と、政治、司法、疑似科学が未分化であった昔のはなしは置いておくと、今現在の学問的知的水準として、「非合理な恣意的な公理から勝手に演繹して、構築した系で、現実を説明したり、道徳を正当化する行動体系」を十分知的な人間に納得させることは不可能である。

水の上を人は歩かない。
神は人の言葉は話さない。……云々

勿論、未開な論理の中に、思わぬ思想のヒントが見つかることもあるだろう。

唯識ラカンとの共通点も見つかるかもしれないし、そっちの説明の方がラカンより分かりやすいかもしれない。 
それなら、比喩として唯識を使えば良いまでで、
だからと言って大乗の方が精神分析より上と云う訳ではない。

精神分析の方がずっと世界の(一部の)説明としては合理的で整合性が有り有益だ。
(勿論、絶対ではないし問題山積みでもある。比較の話だ)

虚心タンカイに読めば、神学など、屁理屈でしかない。

(あっ、屁理屈は屁理屈で面白いんですよ。
たしかに、見事な論理のサーカスみたいで。
ただ、それだけのこと。トミズム大好き。)

ただ、1つだけ不安なことがある。
現実問題として、哲学的宗教だとか、プログレッシブ宗教哲学なんて当分……永遠かも……現れない以上、もし、弱い人間がコミューンとしての現実の宗教集団に参加することで安心を得たいと考えるならば、

『この先、盛んになるのは確実にイスラムであろう』

それも、また人類にとって困ったことではあるのだが。
小生の知ったことではない
どうせ、もうすぐ死んじゃうんだし。

----------

あっ、小生の話は何時も、わざと、だが、
『社会的な視点は無い』

……そんなことは、現実にどうやるのさ?無理じゃないか?
……

知らないよ。論理的には可能だし、学問なんて基本絵空事なんだから。
それに、すくなくともスピノザや、俺はやってるんだから。
独覚で結構毛だらけ。

現実に最大多数からなるこの社会を良くすること、そんなことは別の個性の人が語るべき事だ。

俺は全く適性に欠けるし、真っ平ごめん。
おら、上野千鶴子先生じゃないんだから。

それは、政治とか方法論とか得意な、目立ちたがりの役目。
例えば、良心的な学問のある僧侶とかどうかね?。
電⚪の袈裟を着た真宗の坊主とかがいいんじゃない?

自分の既得権益を守るためだ、それなりに頑張るでしょう。
どうぞ、がんばってください。

紅旗青戎我が事にあらず。だ。フフンフン🎵

メメント・モリ より離れよ 【哲学】 

メメント・モリ より離れよ 【哲学】 

基本的に、哲学(の一部)や宗教が問題としてきた大きな切実なことは二つだと思う。

生の苦、と、死の恐怖。

生きると云うことは苦痛の連続である。
このことは、解説不要だろう。

(菅見だが、日本の仏教は仏陀の教えのこちらだけにしか興味を示さなかった。故に、浄土系が極端に好まれたのだと思う。門徒は死を然程嫌わない。)

一方、死は恐怖である。と云うこと。
このことには、やや説明がいる。
一般に全ての人が死を、正しく恐れているわけではない。

せいぜいが漠然とした不安。

死の直前に恐れるのも、自我の消滅程度であって、存在そのものの絶対的な非可逆的な無への転落といったハッキリとした事態に対する恐怖ではない。

だから、魂だとか、お墓だとか、あの世だとか能天気な戯言を言っていられるのだと思う。

存在がなくなるとは、世界への視点が無くなることだとわかっていない。

仏陀のセンスからはるかに外れてしまっている。日本のお葬式。

死を正しく恐れるには、恐れ続ける時間と、恐怖の成長……悪く云えば長い長いオブセッション、よく云えば言語的な教養が必要であり、何れにしてもそれは業とでも云うような、説明し難い生まれもった呪いのようなキャラクターに由来するとしか言いようがない。

宗教的な、或いは、哲学的なセンスと言い換えても良い。
あまり、持って生まれて有り難いと云うような、センスではない。

死に至る過程への恐怖でもなく、漠然とした自我の不在でもなく、自己にとっての世界そのものの絶対的な非可逆的な消滅。
ある人曰く「永遠の存在消滅」。

「私を忘れないで」と言って死に臨んだ作家がいたが、彼の人が恐れたのはナンだったのだろう。?

消滅した存在にとって、世界がその記憶を持とうが持つまいが何の変わりがあるのだろう

死の後、何かが残ると確信しているなら、そもそも恐怖はない……のではないか?

世界がワタシを記憶している限りにおいて、ワタシの何かが存在し続けると云う事なのだろうか?

ま、柳田だったか、個の霊も三代たてば祖霊に交じる、とも云うらしいからそのような感覚は我が国では普遍的なのかもしれない。

要するに、confusionなのだろう。

存在が無くなると云う事態は原理的に想像が出来ない。
それは、恐怖と云うより極度の不安なのかもしれない。

ウンウン。それは小生も同様。……その、感覚はわかるよ勿論。

その先……。

そして、その想像できないこと以上に確実なことはこの世に何一つ無い、と云うことも不愉快極まりない。

そもそも、世界がワタシと云う意識から一方的にしか開示されないと云う事態がありながら、そのワタシと云う存在無き後も何事もなく存在し続けると云う事態が上手く理解できない。

だからと言って、独我論的に、ワタシの存在と共に世界が消滅する、と云う事態も又何を意味しているかがわからない。

つまるところ、死のうが生きていようが、世界もワタシもその関係もわからない。

、、、、、

更に?、
死の恐怖の嫌らしいところは、生にじわじわと浸食して日常を腐蝕し痩せ衰えさせるところである。

生と日常への軽蔑。社会と人類への嫌悪。

存在の消滅の恐怖は、存在とは何かへの疑問に繋がり、存在への不安は、日常への不信に繋がり、日常を……やがて永遠に完全に消えてしまう存在の世界の中だけで平気で生きる人々への軽蔑に繋がり、そのような人々で成立する社会への軽視と忠誠心の欠如に繋がり、結局の処自分で自分の居場所を無くしてしまう。  

実際、社会にも人々にも諦めと軽蔑しかなくなれば、もう面倒くさくなっていっそのこと突然死が幕を下ろしてくれれば良いのに。とさえ思えることもある。

死ぬまで、不思議の国のガリバーかよ?うんざりだ。。

しんどい思いをして、何かをするのは止めよう。
正義も善意も愛も破壊も憎悪も復讐も献身も、無駄じゃ無駄じゃ、徒労だ。

プロテスタントの倫理と資本主義の精神なんてタワゴトはクソクラエだ。バカじゃなかろか。

どうせ死んでしまうのだ、ワタシにとってはワタシの存在の無き後、端的に何も無い。
nothing.
ワタシが何事を成しても(なさなくても)全く変わらず確実に無意味なのだ。

そこまで考えているワタクシすら無意味なのだから、その有るか無いかわからぬ日常に愚にもつかぬ意味を見いだして粉骨砕身一所懸命ソープオペラを演じている人々
の比較対象など一顧だにする価値はない。

比較対象とは、仕事だの、金儲けだの、名誉だののことだ。

ここでは略すが、世界に目的も意味も無い。
故に、ワタシの存在にも所与の意味は無い。

因って、ワタシの存在は、その消滅までの須臾(しゅゆ)の間の無意味な暇潰しでしかない。

死の絶対性は、その無意味な暇潰しに、社会と隣人への軽蔑を加える。

全く、なんともはや……だ。

勿論、もしワタシがALSだったら、もっとシビアな、また別の考えを持つだろう。
しかし、これが今回の因果というやつだ。
無意味な仮定をしている程の余裕はない。

どちらにしろ、人はその開示された世界の中で何らかの暇潰しをすることにしか救いは有りようもない。

泣き言を言っても仕方ない。 

快楽なり、美なり、酩酊なり、狂気なり……できればより高雅なお楽しみを見つけることだ。

救いは、何れにしろ、然程時間はないこと。

メメント・モリより離れよ。
死神を戯れることなく、道化と踊れ。

狂信者は狂信者の天国を夢見る。~
詩人よあなたの言う通りだ。

Bライフはハイコストらしい。【雑】

Bライフはハイコストらしい。【雑】

『寝太郎』 さんが久々に長い文章を書いた。
死についてだ。
内容に対して些か失礼な言いぐさだが、とてもおもしろい。
あっ、おもしろいのは筆者(寝太郎氏)である。
内容は「いつか来た道」…。

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閑話休題

それはさておき、まったく無関係なのだが偶々そこで
『森林生活』と云うプログを知って、すこし覗い
てみた。

わりと論理的、定量的分析ずき?な方らしく色々具体的に数字でつめていて好感が持てる。

中に、生活費について

○泥水をすする程度で(年間)50万円、人間らしい生活で100万必要…云々、と計算されていた。

正直、約3年間小生が実際暮らしてみてわかった数字よりも「随分、高い」。
うろ覚えだが、寝太郎さんの試算と比べてもかなり高い。

何故、そうなるか?
……は、内容を見ると単純なことだった。

①車を持っている。
ここにつきる。
これは、せめて二輪にしないと低消費生活とは云えない。

以下は、副次的な事柄だが書いておく。
(注記)----━
これは、森林生活氏への提言とか批評とかそんなおこがましいものではない。
氏がそのように生活するには、それなりの理由があったのだから、致し方ない結論なのだろう。
以下は、単純に数字だけをみての、愚考するところの一般論……いや、思いつきのメモに過ぎない。万が一、億が一、お目に触れたとしても御寛恕を乞う次第。
--------

さてさて、

以下(車の所持以外の事)を副次的なことと云う所以は、
「以下の事々の原因のほとんどは筆者があまりアウトドア経験がない?と思われることと、自炊生活も然程熟練していないことに由来すると思われる」ので、
つまりは、いずれ解決するだろうから。である。

②食費  これを3万円計上している。
これは、「B級グルメ」氏の常々おっしゃるように「都市部に住まないと食費は高くつく」と云う真実だろう。

氏は、二人暮らしそこそこうまいものを食べて酒も飲んで月3万円以下で暮らしている。レシートまで公表している。
小生は氏よりはるかに大酒飲みだし、氏のように半額狙いは基本的にはしないし、わずかに高級志向(笑)だが、やはり月に1.5万で済んでいる。……まぁ、菜食中心と歳もある。

ちなみに氏は旭川市内。
小生は埼玉西部の街で徒歩圏に5つもスーパーがあり、それ以外に業務スーパーと小さな24時間スーパーがあり、農協の即売所があり、健康食品店もある。
野菜も安いし、野菜以外の生鮮グロサリ食品はスーパーが安い。
しかし、森林生活氏とて、それはそれで手は有りそうなものだが……?
➡これは、酒を飲まなければ1万で十分まかなえる。

③水を買っている。!!

これは、……。雨水でも沢水でも濾過して飲めばいいのに。と、思う。
1日140円の計算?月に4200円?!
➡小生の水道代が月に約2千数百円。
これより高くては、もはやBライフではない。
小生の水道代はそもそも基本料がバカ高いか従量の節水は無意味だし、水洗便所だから止めるわけにもいかないから仕方ない経費だ。同じく、ガスも電気も要らないのだが、止めるわけにもいかない。ミットもない。
しかし、田舎暮らしなら水は「沢水、と天水」を濾過してまかなうのが当然。
車がなくても。だ。あるなら、湧き水を汲んでくれば良い。
⇒⇒0円

③風呂は全て銭湯。
これは、小生もほぼ同じ。
しかし、これは趣味の問題で、Bライフなら、「湯を沸かしてシャワーを浴びなさい」
⇒⇒0円

と、云うわけで、50~100万円と云う数字はかなり下がる。

⚫都市部に住めば食費は安くなるが、ライフラインは契約しないわけにはいかないのでの固定費がかかる。

⚫田舎に住めば食費は(工夫しなければ)高くなるが、ライフラインの契約は(工夫すれば)不要になる。
って、工夫しないBライフってナンなのさ((苦笑

⚫どちらに住もうが、車を持つのは論外。
(Bライフの「宇崎つか」氏のように車中泊旅をするなら話は別だが)

◎結論 都市部で家を持っているのが一番低コストでハイライフ(笑)
田舎でBライフなら、固定費(特に車)を限りなくゼロにして、流動費(食費、飲料水、燃料)を低くする工夫と手間を惜しまないこと。

それが、嫌なら 働けよ。
PV をあてにすると品位が下がるような気もするが、それも人各々か……

もっと、Bライフの若者が増えればいいのになー。

山水逍遙芸術論 序【雑】

山水逍遙芸術論 序【雑】

山登りと山歩きは違う。
と、云う話は取敢えず置いておく。

『受け手の芸術』 と、云う言葉は多分、青山二郎の本で見たのだと記憶する。
つまり、大抵の芸術は、芸術家本人が作品をアウトプットすることをもって芸術活動とする。
即ち「送り手の芸術」なのだが、時に既存のものを解釈し玩味することをもって芸術活動とする受動即能動たる芸術もある。と、云うことだ。

青山二郎は、茶道を評するにこの言葉を作った。

小生、愚根にして茶など知らず。
この言葉を以て、山歩きの指針として今に至る。

例えば、美術館、展覧会、旧跡を巡るが如く山野海浜を歩くことを楽しみとする。

そもそも、芸術哲学と、商業やスポーツとはヒトの活動としてまるで正反対の事柄なのだとの思想を持つ処の小生としては、山歩きをスポーツだのスタンプラリー(百名山)だのに堕する輩は思慮の他、李白に倣えば瓦石と同じ煩わしきのみにて眼中に無し。

山野凡夫充つれば、寧ろ陋屋に蟄居するに如かず。
とは云え、堪らずまたウルトラライトを担ぎて漂泊するも性サガなる哉、命なる哉。

ご本尊「再」ウルトラライト化計画 【雑】

ご本尊「再」ウルトラライト化計画 【雑】

趣旨

少しリバウンド気味なので、もう少し減量するとともに、体力も戻す。

平地歩き4時間、山歩き4時間で、週に2800kcal
13週間、8月初旬で5㎏減量の計算。

----------

前回の運動主体の計画は挫折して、この後、9月に大きく体調を崩した。 
その結果、民間療法代替医療を模索して、11月から食事療法主体、少食化炭水化物抜き、肉抜きで大きく減量成功した。
が、少食と肉米抜きのためか、筋肉が落ち、スタミナがなくなったように感じる。

2018年夏 72㎏→年末64.5(-7.5)
ここから、炭水化物肉一部復活
'19年2月 62.9㎏(-9.1)
で、その後、普通に米も食べはじめたら、やはり太り始めた。
'19 4月 65.6㎏(-6.4)
今度は、食事療法より運動主体の減量に変えてみる。
ダメそうなら、また少食療法を行う。

再び、 
ご本尊「再」ウルトラライト化計画 

前回の趣旨
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ご本尊ウルトラライト化計画【雑】20180216

……中略……

登山カロリー消費

百名山並みの山の登山 536キロカロリー
奥多摩高尾程度〃 479
尾瀬や西沢渓谷程度ウォーキング 240 
http://www7b.biglobe.ne.jp/~photography/calorie.html

普通の平らな道ウォーキング 221 
http://keisan.casio.jp/exec/system/1161228742

……中略……
一時間のウォーキングで220キロカロリーに定数変更。

サウナ・入浴は……中略……

一時間で220キロカロリー消費とする。
……中略……

よって、
72000キロカロリー消費にかかるのは、
減量トレ一回あたり220×5時間で1100キロカロリー
65回(日)で達成予定に目標を変更する。云々
----------
これを、一応たたき台にする。

最低週に1回は、
風呂と平地のウォーキング、計4時間 880kcal  と
山歩き4時間 1920kcal
で、2800kcal
13週で5㎏ 分のカロリー消費になる。

食事でどれだけ増えて相殺されるかはしばらく様子を見て、また修正することとし、しばらくこの軽いノルマをこなしてみる。

(仮称)自前の思想と社会性のトリレンマ β版 【思想】

(仮称)自前の思想と社会性のトリレンマ β版 【思想】

要旨
国際金融のトリレンマを、社会と個人の場合に比喩的に当てはめてみた。
大雑把な論理的なスケッチの試み。

精度をあげないと、このままではまだ使用に耐えないが、忘備のメモ。

--------

Wikipediaより……
国際金融のトリレンマ……

以下の3つの政策は同時に実現することができず、同時に2つしか実現できない。

自由な資本移動
為替相場の安定(固定相場制)
独立した金融政策

……中略……

ある国はこの3つの「自由な資本移動」「固定相場制」「独立した金融政策」のうち2つだけを受容することができる。もしある国が ……中略……
「自由な資本移動」と「固定相場制」を導入するのであれば、金融政策の独立性は失われる

……以下略

---------
暇人之妄想。

個人と社会で比喩を考えてみた。
雑なスケッチです。急な思いつきなので詳細は詰めてません。
ま、早く書きたかったのでとりあえず。とりあえず。

国際経済のトリレンマとの比喩で考えてみる。

3つの要素を以下とする。

・社会内での友好性・好感度の維持(豊かなコミニュケーション)
・自前の思想に基づいた独立した意思決定
・思想と行動の整合性(による自我の安定)

①豊かなコミニュケーション、と、独立した意思決定をとると、自我の安定が成り立たないか?

うん、常に社会内での立ち位置が微妙になるから、情報の出し方が複雑になり、力関係から意思決定と行動のパワーバランスに気配りし続けなくてはならないから、行動と思想に整合性をとるのが難しくなり、精神的な安定は無くなりそうだな。

②コミニュケーション、自我の安定をとる。
すると、独立した意思決定、はとれないか?

うん、まさしく、日本的な空気の決定力。
話せば話すほど思想の独自性は失われ、決定は人任せ、日より見的な無責任に流れる。
社会内で好かれ、自我も安定させるためには、考えないで、付和雷同で無責任になること。
うん、成り立つね。

③自前の思想や独立した意思決定と、思想行動の整合性とそれによる自我の安定をとる。と、社会とのコミニュケーションは上手くいかない。

これは、わかりやすい。確かに、この場合、ゴーイングmywayだから、自由なコミニュケーションは無駄と云うか精神的な消耗でしかない。
社会的な友好さを失い、孤立してしまうだろうな。

自我の安定=思想と行動の整合性、と云うのはやや独立したことをいっしょくたにしてるから、突っ込みどころ弱点だよ。わかってる。ウンウン。……雑だな。

ま、なんとなく、もう少し調整して突っ込まれた時の理論武装して、定義と言葉の精度を高めたら使えそうだな。ウンウン。
暇で頭が冴えてるとき、ブラッシュアップしてみよう。

なんと名前をつけるかな?
「自前の思想と社会性のトリレンマ」??
まっ(仮称)ってやつ。

人に好かれたいなら、考えるな。ってことだな。

蛇足;

更に、Wikipediaより……

国際金融のトリレンマに類似のものとして、「世界経済の政治的トリレンマ」という仮説が、
……中略……
以下の3つは同時に達成することはできず、どれか2つをとれば、残りのどれかひとつが達成できない(犠牲になる、縮小する)とする考えである。

1.『グローバル化(国際経済統合)』
2.『国家主権(国家の自立)』
3.『民主主義(個人の自由)』
これらは「国際金融のトリレンマ」の、

1.『自由な資本移動』
2.『独立した金融政策』
3.『為替の安定(固定相場制)』
にそれぞれの順番で対応するものと考えられるとしている。

すなわち、

1.『グローバル化と国家主権をとれば民主主義が成立しない』
2.『グローバル化と民主主義をとれば国家主権が成立しない』
3.『国家主権と民主主義をとればグローバル化が成立しない』
となるとしている。

例として、1.の代表が共産中国であり、2.の代表がEU加盟各国であるとしている。

完全に無意味な妄想だが
3. の例として、
徳川幕府が勝利した後の鎖国政策がうまく存続している。仮想世界のSFがあったら面白い。
「高い塔の男」みたいな……。

で、ついでに、「世界経済の政治的トリレンマ」の方で「個人と社会」での比喩を対応させてみようとしたが、どうも上手くいかないみたい。

上手いパラメータがおもいつかない。

……諸国家、国家、国民 ……複数の社会、帰属する社会、個人……

集団間の安定、平和……
集団の存続、自立……
集団内の個人の存続、自由……

んー。(;>_<;)
うまくいかないな。

……気が付いたのだが、国際経済のトリレンマと、世界経済の政治的トリレンマは正確に対応しているわけではないように思える。
国際経済のトリレンマほど、~政治的トリレンマの方はうまく機能しないのではないか??
素人が思い付きでえらそーに。デスネ。はい。
サヨナラサヨナラサヨナラ✋

ここいらへんは、パス。
ダメだこりゃ~(byいかりや長介)

以上。おちはない、暇潰しまで。

非Aなる概念と孤独について 【哲学】

非Aなる概念と孤独について 【哲学】

⚪AとBが対義的 である場合、つまりA=非B 非A=B。 

独立した対義語 AとB が存在する場合。が、まずある。
これを、case-A・B とする。

case-A・B の例。
「善」・「悪」
「光」・「闇」
「白」・「黒」
「男」・「女」  ……等々

⚪独立した対義語がない場合。つまり
Aと非A として表す場合は、
case-A・非Aと表記出来るだろう。
この、caseには3種類あって、

Aに、善悪のニュアンスの無い場合がまずひとつ。

更に、このcase0=A・非A型
の、Aなる単語が「善、或いは好ましいニュアンス」を持つ場合を "a(善)" 、
逆に「悪、或いは好ましく無いニュアンス」を持つ場合を "a(悪)" と表記すると、

"a(善)" と、非"a(善)" で構成される対義の類を
 case1=a(善)・非a(善)型、略して 善・非善型……2つ目

a(悪)と、非a (悪)で構成される対義の類を
 case2=a(悪)・非a(悪)型、略して 悪・非悪型……3つ目
と表記できる、と思う。

⚪面白いことに、大抵のケースは、
善・非善型 のようだ。
これは、洋の東西を問わないので「言霊思想」と云う訳でもなさそうだが、所謂「予祝」(あらかじめ悪いことを考えない、好ましいことを言っておく、と良いことが起きる)と云う宗教概念が当てはまるのかも知れない。

⚪たとえば、幸福、しあわせ、と云う概念は
善・非善型 だ

幸福の対義語は、不幸で、不幸を表す独立した(幸を用いない)語は無い。

⚪同じく、正義 も 善・非善型 だ。

以下ネットにて……
「justiceの対義語は、injustice です。
正義の対義語 不正義、不義」……不正……

ま、あとは色々考えてみて下さい。

⚪面白いことに……皮肉な?か?、この世は「不幸」が常態だし、「不正義」が当たり前である。
にもかかわらず、不幸や不正義にあたる独立した言葉はない。

 ⚪ ⚪ ⚪

⚪さて、ここからが主題なのだが「孤独」について。
これは、珍しく
悪・非悪型 だ。

と云うか、孤独については、対義語の存在すらよくわからない。
一応、ネットで調べたが何となく腑に落ちない。

以下ネットにて。

連帯……
孤独 連れ立つ
意味 周囲にたよりになる相手が一人も居ないで、ひとりぼっちであること いっしょに行く。伴って行く。
和英 alone accompany……

その他、あまり賢いとも思われない戯言が色々かかれていた。

仮に 孤独の対義語を "非孤独" としておく。
……造語かも知れないが、今のところこれ以外に言いようが無いように思える。

しかしながら、どう考えても、人間の本質は、孤独である。
動物や自然に孤独は無い。
正確には孤独と云う概念が成立する余地がない。

成立する余地がないとは、以下の如し。

……山人曰く、

全てが闇ならば、光と云う概念が成立する余地がない。
光と云う概念が成立する余地がないのなら、闇と云う言葉の存在意義はなくなる。
つまり、全てが闇ならば、闇と云う言葉は無くなる。

地底洞窟で進化した目の無い魚には、闇は無い。
……云々、以上。

で、だ、

自然は連続している、個と群も、生と死も、自と他も。
われわれ人間だけが、自然の連続性から切り離され「私」として存在してしまっている。

バタイユの云う「失われた連続性」と云うやつだ。

孤独とは、この「失われた連続性」と云う事態の心理的表現だから、
非孤独とは、「連続性」と云うことなのだが、一般には「孤独の反対は連続性」では、何を言っているかわからないだろうから、非孤独でいいのだ。

あるいは、失われた連続性=人間の本質、なのだから、
非孤独=連続性=自然 でも良いのだが、
これでは一般人にはますます意味不明になる。

都会人には現実的なニュアンスとしては、自然=孤独ですらある。

人間は、真の自然のなかで恐ろしいほどの孤独を感じる。
一度、山の中で野宿をしてみるといい。

これは、本来は生物としては倒錯である。
しかし、人間的な事実でもある。

人間存在と云うものが、倒錯なのだろう。

何故、神は人間なんかを存在させてしまったのか?
まったく、うんざりする生き物どもだ。

以上