罔兩庵日乗 mouryouan’s diary

私的ナ思索ト逍遙ニマツワル散話妄言覚書キ

『兀狄山人漂泊録』は、こちら↓↓↓

『兀狄山人漂泊録』は、こちら↓↓↓

http://gotuteki.hatenadiary.com/

主題は、旅 と 飲食。

【山】【旅】【散歩】【ポタリング】【UL】【MYOG】
山と山道具、UL ウルトラライト MYOG メイク ユァ オウン ギア(山道具自作)、歩き旅、自転車旅、野宿、聖域と遺跡巡り

【食】【業務スーパー
B級グルメ 業務スーパー 料理 等

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こちら、『罔兩庵日乗』
主題は、哲学思索読書等の覚書。

……極主観的私的個人的な
突発的思い付き、形而上学、哲学、思想、思索、菅見、私見、散話、妄言、極論、暴論 等々 の
覚書 ですので、気に障ったら 通り過ぎてください。

罔兩庵日乗御挨拶↓↓
https://mouryouan.hatenadiary.jp/entry/2018/09/20/042102

罔兩庵主人 兀狄山人 gotuteki sanzin

登山においては、経験が少ないものはウルトラライトをしてはいけない理由。 【雑】

登山においては、経験が少ないものはウルトラライトをしてはいけない理由。 【雑】

法則その1.
 「あったら便利かも」は「ほとんど使わない」
が、
 「あれば助かった」は「かならず使う」

法則1.より、
「あれば助かったな」は、経験がないとわからない。
よって、経験の多いものは最低限の重量増で利便さを得れるが、
未経験者は少しばかりの重量を減らすために大きな不便を耐えなければならない。


法則その2.
 「もしもの時に必要」は「大抵なんとかなるが、本当に必要なこともある」要するに、わからない。
が、 
 「無くて酷い目に会った、とかヒヤッとした」は「必ず必要」

法則2.より、
経験の少ないものの軽量化は非常に危険、または山小屋や救助隊など他人だよりになるしかない。
他人に頼れば頼るほど自由はなくなり、ウルトラライトの本質からも離れていく。何より、つまらない。

つまり、初心者は経験者より荷物が重くなるのが当たり前で、経験が多くならないと捨てるべきものはわかるはずがない。

 ⭕ ⭕ ⭕

以上より、経験の少ないものが『登山において』ウルトラライト化してはならない。

ただし、『整備されたトレイルやキャンプ場』では問題は少ない。

・本格装備で登山(単独かつ夜営)の経験を重ねること。
・整備された低山や観光アウトドア(?)で軽量化を工夫すること。
が、まっとうなウルトラライトへの道筋のような気がする。

もちろん、望んでリスクをとるというのも個人の自由だ。
リスクが明確に理解されているならば、だが。

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(basicweight 4㎏)

比喩としての消化器 【哲学 メモ】

比喩としての消化器 【哲学 メモ】
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内なる外部 消化器系
内なる身体 
(内裏的境界的,内部身体 脳血液関門内の頭部)

外なる内部 所与のオペレーションシステム、用意されたアプリケーションとパラメータ 
……🆕・単なる人類の思考=上記システムから自動生成される。

「外ならざる」精神// 
哲学的内省 =形而上的暫定的な世界構築  抽象言語の再定義 
🆕二重法界(悟りと行の絶えざるフィードバック)……思考の整合化 思考と行動の整合化 思考と感情の統一
学問……関連事物と権威的学問の調査と記憶と主観的重み付け

神の認識
神への求心力 伝統的民族的な宗教心

--------

内なる外部の軽視若しくは無視→病
 
外なる内部以外の軽視若しくは無視→ニーチェの謂う、ただの人類

外なる内部のみ、つまり外ならざる内部(哲学的形而上学も伝統的宗教)の閑却・空虚化→ 現代的大衆人

伝統的宗教の代替品或いはアヘン →高度資本主義 と 民主主義 

代替え物の供給者→ (ディックの云うところの)帝国
=資本家とマスメディア、大衆人


世捨ての経済 ~約2年間無職渡世の感想~ 【世捨て 経済】

世捨ての経済 ~約2年間無職渡世の感想~ 【世捨て 経済】

Bライフ諸氏は、いずれもアフェリエイトを収入源に目論むためにPV(視聴率?)とやらで苦しんでいるようだ。

小生は、全面貯蓄による完全非労働無職なので、全く他人を気にせず書きたいときに書きたいことを書ける。

気に入らなかったら、今すぐにでも、すべて消去しても僅な痛痒もない。

それは兎も角、金の話だ。誰の為でもなく、単なる覚え書きとして。

前に書いた記事↓↓
https://mouryouan.hatenadiary.jp/entry/2018/09/17/111959

ここでは、年間84万と想定していたから、実際はこれよりずいぶん少なかった。

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結論;国民年金だけで暮らせる?!

個人的な資質・キャラクターに全面的に依存する結論ではあるが、

無所得、且つ、持ち家有り。ならば、

不慮の事態。即ち、病気、天災、事故、家屋等の損傷などを除けば、

🔴国民年金を満額払っていれば(いまのところは、月に64941円)65才以降の日々の生活は大丈夫。
……と云う驚くべき結論になった。

なんともはや、まさか、そんな涙金で生きていけるとは夢想すらできなかった。

世を捨てると、驚くほど金は出ていかないものだ。

家(家賃)、車、外食。 これを、各自なんとかストレスなく解決することが肝要かと思える。

   ------

詳細は省くが、200万キャッシュがあれば傷病保険にはいる必要はないとか。
ならば、あと100万上乗せして、上記の不慮の事態にそなえての保険としての予備の貯蓄は約300万円でいいのではないか?。

ならば、ざっくり計算すると、

🔴たとえば、55才からならば、1000万円 と 家 があれば、世を捨ててもダイジョーブ。

-------
外食、車は止めようと思えば止めれるが、住むところはどうやっても必要となる。

家とは家賃を払わないで住める場所ならば何でも良い。
Bライフ的な小屋でも、建て売りでも、親からもらったものでも。

……ただし、他人(女とか)のところに転がり込むのは別。
他人をあてにするのなら、そのリスクをヘッジする貯金が更に必要になる。……たとえば、ボロ屋を買えるほど……最低で300万円ほどか?

⚫他人に依存して独立性を失った無職は、乞食と然程変わらない。

生活保護などをあてにするのなら、自由などと口にするものではない。
━━━━━━

感想; 

まず、一番重要なのは、
①低消費生活をストレスなく楽しめること

であり、金が無いのがストレスで、無駄な消費をしないと惨めになるくらいなら稼いだ方が余程いい。

消費生活が好きと云うことは、働くのが好きと云うこととイクォールなのだ、きちん理解してそれを認めて、
高度資本主義の走狗として楽しいコマーシャリズムの奴隷生活を生きれば良い。

低消費生活とは、
孤独で静謐で生活そのものに手をかけて丁寧に生きることであるから、それは長年の修練と思索と試行錯誤が必須となる、面倒なライフスタイルだ。

死ぬまで働いて、死ぬまで金を無駄に吐き出すのが大衆の幸福なのだから、それができるならば従う方がいい。

ドライブやパチンコやディズニーランドで楽しむためには金が要る。
哲学を思索し、山野を逍遙し、書を楽しみ、楽器を奏でるなら金は要らない。
……そう云うことだ。

低消費の生活の技術さえ持ってしまえば、あとは
②貯蓄の実践

③予算に到達したら、未練なく、世から身を引く実践。

と、なるのだが、②は実に簡単なことだ。
働いて使わないのだから、黙っていても貯まっていく。

③が至難。
人間、いざとなると不安と未練と欲とで、なかなか全ての職を辞し、人間関係を清算することは出来るものではない。

こここらは、意志だけの問題でもなく、もって生まれた巡り合わせとしか言い様がない。

神がそれを望むのならば、色々なことが、世を捨てる方向に人を押し出すものだ。
……あるいは、穢土のしがらみから離さないものだ。

命なるかな。

-------

蛇足だが、実は、当初の想定ではもっと物入りかと考えていた。
この分なら、100まで死ななくてもなんとかなりそうだ。
……真っ平だけど(笑)

こんなことなら、もっと早く世を捨てれたのだったが、これも因果と云うものだろう。

哲学的宗教と プログレッシブ宗教哲学【哲学】

哲学的宗教と プログレッシブ宗教哲学【哲学】

ワタシがここで哲学的宗教 と云う言葉で意味することは、例えばスピノザ主義のような哲学的な形而上学、それが昇華して宗教へと結実するものを意味する。
具体的には、エチカEODGの内容を抜粋し整理して、些細な個人的な儀礼を決めれば誰かにとってのスピノザ教になるわけだ。

これは、現代における唯一の正しい宗教の形(の一例)だろう。

…………。。
ディックは彼なりに完成させていたのだろうか?
VARISのテスタメントは、小生には部分的にしか理解できない。
そもそも、グノーシスの世界観は複雑さゆえ脆弱すぎて好みにあわないし、納得できない。
神学に来世とかの概念を導入するのは理論的にリスキーに過ぎる。
スビノザのDSN(神即自然)の方がアイデアとしてシンプル故に強固に思える。
一般に二元論より、一元論の方が論理的破綻が少ないような気がする。

話を戻す。

これ以外の形の宗教は、正しくない。

少なくとも、知的な現代人にその経典を信ずるのは無理だ。
社会道徳だのの便宜や方便としても、かっては有効だった部分もあったかもしれないが、今は害の方が圧倒的に多く、経済倫理的にも有害無益な存在である。

勿論、どのような無理無体非合理な思想信条でも内心持つことは自由だ。
この世のほとんどは、金と世間体しか考えていない忙しい人々なのだから、中にはいまだに自ら喜んで既存宗教のカモになりたい人もいるだろう。
どうぞ、ご自由に。

ただ、狂信の強要や、伝染は有害無益なので慎んで頂きたい。
ましてや、墓質(檀家に対して、墓が寺にあることをもって、各種寄付や儀式参加、訪問に対する金銭を強制強要すること)などと云う無法な詐欺強奪は言語道断である。
それこそ、釈迦の恥だ。

人間とは出来損ないの試作品だ。
精神は予め病んでいる。
……欠陥OSに、使いにくいシェル、バグだらけのアプリに、繋がりにくい回線でなんとか運用している瀕死のシステム……バージョンアップは無し。

だから宗教が必要だと云うのは正しい。
ニーチェ曰く、真実は醜い。偽の楽園が必要だ。
しかしながら、芸術や哲学は万人には無理がある。
宗教なら、なんとかなる。

しかし、その宗教が既存教団であってはならない。
彼らは2千年かけて失敗し続け、害毒を垂れ流し続けたのだ。
もう、信用するのはやめては如何だろうか?

では、現在の既存宗教が果たしている役割、葬式などの儀礼慣習はどうするのか?
そんなことは、小生が考える義理は無い。
各自、宜しくいたされよ。

とにかく、あらゆる既存宗教は有害無益でなるべく早く世界から歴史的な遺物となり果ててくれ。
その醜い愚かな姿を消すべきである。

が、しかし、これは実際は無理である。

何故なら、大部分の人類は、まともに哲学的宗教などと云うものを考える力はないからだ。
自分で考えれぬものを頼るならば、合理的でも非合理でも大して変わりはない。
心理的不安につけこまれ、いいように利用されるのは目に見えている。
水晶玉か清き一票か?……その程度の差だ。

これにかんしては親鸞が正しい。
「よきひとだのみ」すべからず。だ。

そもそも、
『哲学的宗教とは、一人一宗派であるべきだ』
そもそも、 
教団と云うシステムが悪の濫觴ランショウである。
仏陀エスのむかしは兎も角、今はもう教団の庇護がなくとも個人の思想は裁かれない。
寧ろ、集団は必ず自己延命のため堕落し、成員を犠牲にし、不善を為し、争いの種となる。
集団は多かれ少なかれ日本陸軍である。

個は腐敗しても消えるだけだが、集団が腐敗すると疫病の災禍をもたらす。

--------
ん?
教団と、既存宗教は罵倒しても批判してもきりはないが、表題の 宗教哲学 だ。

宗教哲学とは、普通に考えると、宗教を人間の精神活動のなかに、一般論として位置付ける仕事なわけだろう。

道徳規範に還元するような片手落ちの立場から、絶対者(キリスト教的だなぁ)との関係を掘り下げたり、個人の心理からとらえたり、哲学の方へ統一しようとしたり……ま、時代と立場により色々だ。

色々だけど、
⚪なんか無駄な仕事をやってるな~、って感じる。

ここからは、アカデミックな話でなく、完璧に菅見となる。

整理して、順に。

・人間に宗教は必要である。

・宗教にはたいてい固有の世界観があり、それは形而上学と対応するが、それだけではない何か(ヌミノーゼとか)がある。

・故に、どうやっても宗教を純粋な思想や哲学にとりこみ解消(無くす)することは出来ない。 

・そもそも、宗教に真理も整合性も無い。幻想であり、作り話であり、出来損ないの人間と云う生物を補完し治癒する装置でしかない。

・既存宗教は、一定の役割は果たしてきたが、今や道徳的にも政治的にも経済的にも弊害だけが著しく大きい。さらに、その神学は現在の水準の知性ではとても信じることはできないので、なるべく早く消滅させることが人類の利益だ。

⚪よって、↓↓↓

・人類は、新しい正しい宗教を必要としている。

・その、正しい宗教は、哲学的な形而上学を基礎として、現代社会に抵触しない宗教固有の要素を持ち、できるだけ非組織的で個人的なものであるべきだ。
少なくとも、組織的でない宗教が新たな宗教の中核になるべきだ。
何故なら、いままでの既存宗教の残虐性や弊害は、その集団性と権力指向がもたらしたものだから。

・非組織的な、正しい宗教を一から個人が作ること現実的には不可能なので、宗教を作る上で、その雛形なり、規範なり、プロトコルが必要だ。

・そのため哲学は形而上学を用意することと、宗教固有の何かが社会や道徳に反しないようなガイドラインを用意すべきだ。

宗教哲学 とは、その
形而上学 の規則と制限
宗教固有の何か の、規則と制限
宗教形成のプロトコル
運用上の規範
さらに、可能ならば、テンプレート

などを与えることを存在意義とすべきと考える。

例えるならば、個人的な哲学的宗教を新しい個人の
OS オペレーションシステム と、するならば
宗教哲学 は、
TRON のような、OS そのものでなく、
OSを成立させる約束ごと、プロトコルとなるべきではないか。

と、云うのが本論の趣旨。 

いままでの宗教哲学より、かなり突っ込んだ役割を担うわけだから、今までの区別して呼ぶならばだ、例えば

プログレッシブ宗教哲学

とか、如何でしょう?ナンチャッテ……やや本気……

と、一応話には落ちがついた。

--------
以下余談。。

既存宗教に厳しすぎるようだが、歴史と現状をみる限り、致し方ない。

宗教と、政治、司法、疑似科学が未分化であった昔のはなしは置いておくと、今現在の学問的知的水準として、「非合理な恣意的な公理から勝手に演繹して、構築した系で、現実を説明したり、道徳を正当化する行動体系」を十分知的な人間に納得させることは不可能である。

水の上を人は歩かない。
神は人の言葉は話さない。……云々

勿論、未開な論理の中に、思わぬ思想のヒントが見つかることもあるだろう。

唯識ラカンとの共通点も見つかるかもしれないし、そっちの説明の方がラカンより分かりやすいかもしれない。 
それなら、比喩として唯識を使えば良いまでで、
だからと言って大乗の方が精神分析より上と云う訳ではない。

精神分析の方がずっと世界の(一部の)説明としては合理的で整合性が有り有益だ。
(勿論、絶対ではないし問題山積みでもある。比較の話だ)

虚心タンカイに読めば、神学など、屁理屈でしかない。

(あっ、屁理屈は屁理屈で面白いんですよ。
たしかに、見事な論理のサーカスみたいで。
ただ、それだけのこと。トミズム大好き。)

ただ、1つだけ不安なことがある。
現実問題として、哲学的宗教だとか、プログレッシブ宗教哲学なんて当分……永遠かも……現れない以上、もし、弱い人間がコミューンとしての現実の宗教集団に参加することで安心を得たいと考えるならば、

『この先、盛んになるのは確実にイスラムであろう』

それも、また人類にとって困ったことではあるのだが。
小生の知ったことではない
どうせ、もうすぐ死んじゃうんだし。

----------

あっ、小生の話は何時も、わざと、だが、
『社会的な視点は無い』

……そんなことは、現実にどうやるのさ?無理じゃないか?
……

知らないよ。論理的には可能だし、学問なんて基本絵空事なんだから。
それに、すくなくともスピノザや、俺はやってるんだから。
独覚で結構毛だらけ。

現実に最大多数からなるこの社会を良くすること、そんなことは別の個性の人が語るべき事だ。

俺は全く適性に欠けるし、真っ平ごめん。
おら、上野千鶴子先生じゃないんだから。

それは、政治とか方法論とか得意な、目立ちたがりの役目。
例えば、良心的な学問のある僧侶とかどうかね?。
電⚪の袈裟を着た真宗の坊主とかがいいんじゃない?

自分の既得権益を守るためだ、それなりに頑張るでしょう。
どうぞ、がんばってください。

紅旗青戎我が事にあらず。だ。フフンフン🎵

メメント・モリ より離れよ 【哲学】 

メメント・モリ より離れよ 【哲学】 

基本的に、哲学(の一部)や宗教が問題としてきた大きな切実なことは二つだと思う。

生の苦、と、死の恐怖。

生きると云うことは苦痛の連続である。
このことは、解説不要だろう。

(菅見だが、日本の仏教は仏陀の教えのこちらだけにしか興味を示さなかった。故に、浄土系が極端に好まれたのだと思う。門徒は死を然程嫌わない。)

一方、死は恐怖である。と云うこと。
このことには、やや説明がいる。
一般に全ての人が死を、正しく恐れているわけではない。

せいぜいが漠然とした不安。

死の直前に恐れるのも、自我の消滅程度であって、存在そのものの絶対的な非可逆的な無への転落といったハッキリとした事態に対する恐怖ではない。

だから、魂だとか、お墓だとか、あの世だとか能天気な戯言を言っていられるのだと思う。

存在がなくなるとは、世界への視点が無くなることだとわかっていない。

仏陀のセンスからはるかに外れてしまっている。日本のお葬式。

死を正しく恐れるには、恐れ続ける時間と、恐怖の成長……悪く云えば長い長いオブセッション、よく云えば言語的な教養が必要であり、何れにしてもそれは業とでも云うような、説明し難い生まれもった呪いのようなキャラクターに由来するとしか言いようがない。

宗教的な、或いは、哲学的なセンスと言い換えても良い。
あまり、持って生まれて有り難いと云うような、センスではない。

死に至る過程への恐怖でもなく、漠然とした自我の不在でもなく、自己にとっての世界そのものの絶対的な非可逆的な消滅。
ある人曰く「永遠の存在消滅」。

「私を忘れないで」と言って死に臨んだ作家がいたが、彼の人が恐れたのはナンだったのだろう。?

消滅した存在にとって、世界がその記憶を持とうが持つまいが何の変わりがあるのだろう

死の後、何かが残ると確信しているなら、そもそも恐怖はない……のではないか?

世界がワタシを記憶している限りにおいて、ワタシの何かが存在し続けると云う事なのだろうか?

ま、柳田だったか、個の霊も三代たてば祖霊に交じる、とも云うらしいからそのような感覚は我が国では普遍的なのかもしれない。

要するに、confusionなのだろう。

存在が無くなると云う事態は原理的に想像が出来ない。
それは、恐怖と云うより極度の不安なのかもしれない。

ウンウン。それは小生も同様。……その、感覚はわかるよ勿論。

その先……。

そして、その想像できないこと以上に確実なことはこの世に何一つ無い、と云うことも不愉快極まりない。

そもそも、世界がワタシと云う意識から一方的にしか開示されないと云う事態がありながら、そのワタシと云う存在無き後も何事もなく存在し続けると云う事態が上手く理解できない。

だからと言って、独我論的に、ワタシの存在と共に世界が消滅する、と云う事態も又何を意味しているかがわからない。

つまるところ、死のうが生きていようが、世界もワタシもその関係もわからない。

、、、、、

更に?、
死の恐怖の嫌らしいところは、生にじわじわと浸食して日常を腐蝕し痩せ衰えさせるところである。

生と日常への軽蔑。社会と人類への嫌悪。

存在の消滅の恐怖は、存在とは何かへの疑問に繋がり、存在への不安は、日常への不信に繋がり、日常を……やがて永遠に完全に消えてしまう存在の世界の中だけで平気で生きる人々への軽蔑に繋がり、そのような人々で成立する社会への軽視と忠誠心の欠如に繋がり、結局の処自分で自分の居場所を無くしてしまう。  

実際、社会にも人々にも諦めと軽蔑しかなくなれば、もう面倒くさくなっていっそのこと突然死が幕を下ろしてくれれば良いのに。とさえ思えることもある。

死ぬまで、不思議の国のガリバーかよ?うんざりだ。。

しんどい思いをして、何かをするのは止めよう。
正義も善意も愛も破壊も憎悪も復讐も献身も、無駄じゃ無駄じゃ、徒労だ。

プロテスタントの倫理と資本主義の精神なんてタワゴトはクソクラエだ。バカじゃなかろか。

どうせ死んでしまうのだ、ワタシにとってはワタシの存在の無き後、端的に何も無い。
nothing.
ワタシが何事を成しても(なさなくても)全く変わらず確実に無意味なのだ。

そこまで考えているワタクシすら無意味なのだから、その有るか無いかわからぬ日常に愚にもつかぬ意味を見いだして粉骨砕身一所懸命ソープオペラを演じている人々
の比較対象など一顧だにする価値はない。

比較対象とは、仕事だの、金儲けだの、名誉だののことだ。

ここでは略すが、世界に目的も意味も無い。
故に、ワタシの存在にも所与の意味は無い。

因って、ワタシの存在は、その消滅までの須臾(しゅゆ)の間の無意味な暇潰しでしかない。

死の絶対性は、その無意味な暇潰しに、社会と隣人への軽蔑を加える。

全く、なんともはや……だ。

勿論、もしワタシがALSだったら、もっとシビアな、また別の考えを持つだろう。
しかし、これが今回の因果というやつだ。
無意味な仮定をしている程の余裕はない。

どちらにしろ、人はその開示された世界の中で何らかの暇潰しをすることにしか救いは有りようもない。

泣き言を言っても仕方ない。 

快楽なり、美なり、酩酊なり、狂気なり……できればより高雅なお楽しみを見つけることだ。

救いは、何れにしろ、然程時間はないこと。

メメント・モリより離れよ。
死神を戯れることなく、道化と踊れ。

狂信者は狂信者の天国を夢見る。~
詩人よあなたの言う通りだ。

Bライフはハイコストらしい。【雑】

Bライフはハイコストらしい。【雑】

『寝太郎』 さんが久々に長い文章を書いた。
死についてだ。
内容に対して些か失礼な言いぐさだが、とてもおもしろい。
あっ、おもしろいのは筆者(寝太郎氏)である。
内容は「いつか来た道」…。

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閑話休題

それはさておき、まったく無関係なのだが偶々そこで
『森林生活』と云うプログを知って、すこし覗い
てみた。

わりと論理的、定量的分析ずき?な方らしく色々具体的に数字でつめていて好感が持てる。

中に、生活費について

○泥水をすする程度で(年間)50万円、人間らしい生活で100万必要…云々、と計算されていた。

正直、約3年間小生が実際暮らしてみてわかった数字よりも「随分、高い」。
うろ覚えだが、寝太郎さんの試算と比べてもかなり高い。

何故、そうなるか?
……は、内容を見ると単純なことだった。

①車を持っている。
ここにつきる。
これは、せめて二輪にしないと低消費生活とは云えない。

以下は、副次的な事柄だが書いておく。
(注記)----━
これは、森林生活氏への提言とか批評とかそんなおこがましいものではない。
氏がそのように生活するには、それなりの理由があったのだから、致し方ない結論なのだろう。
以下は、単純に数字だけをみての、愚考するところの一般論……いや、思いつきのメモに過ぎない。万が一、億が一、お目に触れたとしても御寛恕を乞う次第。
--------

さてさて、

以下(車の所持以外の事)を副次的なことと云う所以は、
「以下の事々の原因のほとんどは筆者があまりアウトドア経験がない?と思われることと、自炊生活も然程熟練していないことに由来すると思われる」ので、
つまりは、いずれ解決するだろうから。である。

②食費  これを3万円計上している。
これは、「B級グルメ」氏の常々おっしゃるように「都市部に住まないと食費は高くつく」と云う真実だろう。

氏は、二人暮らしそこそこうまいものを食べて酒も飲んで月3万円以下で暮らしている。レシートまで公表している。
小生は氏よりはるかに大酒飲みだし、氏のように半額狙いは基本的にはしないし、わずかに高級志向(笑)だが、やはり月に1.5万で済んでいる。……まぁ、菜食中心と歳もある。

ちなみに氏は旭川市内。
小生は埼玉西部の街で徒歩圏に5つもスーパーがあり、それ以外に業務スーパーと小さな24時間スーパーがあり、農協の即売所があり、健康食品店もある。
野菜も安いし、野菜以外の生鮮グロサリ食品はスーパーが安い。
しかし、森林生活氏とて、それはそれで手は有りそうなものだが……?
➡これは、酒を飲まなければ1万で十分まかなえる。

③水を買っている。!!

これは、……。雨水でも沢水でも濾過して飲めばいいのに。と、思う。
1日140円の計算?月に4200円?!
➡小生の水道代が月に約2千数百円。
これより高くては、もはやBライフではない。
小生の水道代はそもそも基本料がバカ高いか従量の節水は無意味だし、水洗便所だから止めるわけにもいかないから仕方ない経費だ。同じく、ガスも電気も要らないのだが、止めるわけにもいかない。ミットもない。
しかし、田舎暮らしなら水は「沢水、と天水」を濾過してまかなうのが当然。
車がなくても。だ。あるなら、湧き水を汲んでくれば良い。
⇒⇒0円

③風呂は全て銭湯。
これは、小生もほぼ同じ。
しかし、これは趣味の問題で、Bライフなら、「湯を沸かしてシャワーを浴びなさい」
⇒⇒0円

と、云うわけで、50~100万円と云う数字はかなり下がる。

⚫都市部に住めば食費は安くなるが、ライフラインは契約しないわけにはいかないのでの固定費がかかる。

⚫田舎に住めば食費は(工夫しなければ)高くなるが、ライフラインの契約は(工夫すれば)不要になる。
って、工夫しないBライフってナンなのさ((苦笑

⚫どちらに住もうが、車を持つのは論外。
(Bライフの「宇崎つか」氏のように車中泊旅をするなら話は別だが)

◎結論 都市部で家を持っているのが一番低コストでハイライフ(笑)
田舎でBライフなら、固定費(特に車)を限りなくゼロにして、流動費(食費、飲料水、燃料)を低くする工夫と手間を惜しまないこと。

それが、嫌なら 働けよ。
PV をあてにすると品位が下がるような気もするが、それも人各々か……

もっと、Bライフの若者が増えればいいのになー。

山水逍遙芸術論 序【雑】

山水逍遙芸術論 序【雑】

山登りと山歩きは違う。
と、云う話は取敢えず置いておく。

『受け手の芸術』 と、云う言葉は多分、青山二郎の本で見たのだと記憶する。
つまり、大抵の芸術は、芸術家本人が作品をアウトプットすることをもって芸術活動とする。
即ち「送り手の芸術」なのだが、時に既存のものを解釈し玩味することをもって芸術活動とする受動即能動たる芸術もある。と、云うことだ。

青山二郎は、茶道を評するにこの言葉を作った。

小生、愚根にして茶など知らず。
この言葉を以て、山歩きの指針として今に至る。

例えば、美術館、展覧会、旧跡を巡るが如く山野海浜を歩くことを楽しみとする。

そもそも、芸術哲学と、商業やスポーツとはヒトの活動としてまるで正反対の事柄なのだとの思想を持つ処の小生としては、山歩きをスポーツだのスタンプラリー(百名山)だのに堕する輩は思慮の他、李白に倣えば瓦石と同じ煩わしきのみにて眼中に無し。

山野凡夫充つれば、寧ろ陋屋に蟄居するに如かず。
とは云え、堪らずまたウルトラライトを担ぎて漂泊するも性サガなる哉、命なる哉。